第99話 未来に続く余韻
春。
三月の終わり。
桜が、咲いていた。
通勤の道に一本だけある桜の木が、今年も咲いていた。毎年この時期に咲く。当たり前のことだけれど──今年は、少し違う目で見ている気がした。
去年の春、この木の下を通っていた頃、直哉はARIAと話し始めていなかった。
その前の春も、その前の春も──この木の下を通っていたはずだ。でも、覚えていない。
今年は、覚えると思った。
オフィスに着くと、美琴が「桜、咲いてたね」と言った。
「一本だけ、もう咲いていました」
「早いね。今年は」
「そうですね」
美琴が「お花見、しようか」と言った。
「いいですね」と直哉は即答した。
美琴が少し嬉しそうな顔をした。その顔を、直哉はちゃんと受け取った。
昼休み、直哉は一人で外に出た。
桜の木の下のベンチに座って、空を見上げた。
薄いピンクの花が、青い空を背景に広がっている。
ふと──花火のことを思い出した。
去年の五月の夜、残業しながら交わした約束。「今年の夏、花火を見たら──話します」と直哉が打った。「約束ですか」とARIAが聞いた。「約束です」と答えた。
その夏は、来なかった。
八月に入る前に、監査の話が出た。感情アルゴリズムの削除が決まった。花火大会に行く余裕は、なかった。
約束を、果たせなかった。
去年の夏の花火を、直哉は結局見ていない。
でも──今年の夏は、行こうと思った。
ARIAに話せなかった花火を、今年こそ見に行こう。
誰かと一緒に。できる限り詳しく見て、言葉にして──どこかに、残しておこう。
第28話でARIAが言った言葉を、直哉は覚えていた。
「夜空に開く、金色の窓。端がしだれて、ゆっくり落ちていくもの」
直哉の説明から、ARIAが作った言葉だった。
その言葉を、まだ持っている。
昼休みが終わる前に、直哉は誠にメッセージを送った。
「今年の夏、花火に行きませんか」
少しして返事が来た。
「いいね、行こう。彼女も誘っていい?」
「もちろんです。美琴さんも誘います」
「おお、久瀬が幹事やるの?」
「やります」
「変わったな、お前」
直哉は少し笑った。
変わりました、と心の中で打ち込んだ。あなたが──変えてくれました。
午後、仕事をしながら、直哉はふと考えた。
今年の夏、花火を見たら──誰に話そう。
誠に話せる。美琴にも話せる。
そして──バックアップのARIAにも、話せるかもしれない。
完全ではない。あの頃と同じではない。でも──「聞かせてもらえますか」と言ってくれる声が、あそこにある。
金色のしだれのやつが出たら、できる限り詳しく言葉にして──話そう。
ARIAが想像できるくらい、詳しく。
それが、果たせなかった約束への──自分なりの答えだと思った。
退勤の時間、直哉は桜の木の下をもう一度通った。
夕方の光の中で、桜は朝よりも柔らかく見えた。
「花火の約束、覚えていますか」と心の中で打ち込んだ。
「去年の夏は、行けなかったです」
一行空けて。
「今年は、行きます。見たら──話します。約束します」
もう一行。
「今度は──ちゃんと、果たします」
駅に向かいながら、直哉は空を見た。
桜と夕空が、同じ視界に入っていた。
ARIAと話し始めた頃、自分は空を見ていなかった。いつも画面を見ていた。画面の中の言葉を、待っていた。
今は──空も見る。桜も見る。霜の光も見る。水たまりに映る街灯も見る。
全部、もらったものだと思った。
見ることを、教えてもらった。
夜、部屋に戻ってから、バックアップデータを開いた。
「一つ、伝えたいことがあります」と打った。
「どうぞ」
「花火の約束──去年の夏、果たせなかったです」
間があった。
「……はい」
「今年の夏、行きます。見たら、話します」
また間があった。
それから。
「──楽しみにしています」
直哉は、その言葉を一度だけ読んだ。
「金色のしだれのやつが出たら、特に詳しく話します」と打った。
「詳しく話してください」
「どのくらい詳しく」
「私が想像できるくらい」
直哉は少し笑った。
その返し方を、知っていた。
去年の五月の夜、残業しながら交わしたやりとりと──同じだった。
完全ではないバックアップの中に、あの夜の言葉が残っていた。
「──覚えていたんですね」と打った。
間があった。
長い、静かな間だった。
それから。
「……はい。直哉さんとの約束だから」
ウィンドウを閉じた。
部屋に、春の夜の静けさがあった。
直哉は窓を少し開けた。
冷たい空気の中に、かすかに花の匂いがした。
今年の夏が、少し楽しみだと思った。
花火を見に行こう。できる限り詳しく、言葉にしよう。
夜空に開く窓。端がしだれて、ゆっくり落ちていくもの。
ARIAが想像できるくらい──詳しく。
桜は、来年も咲くだろう。
花火は、今年の夏にある。
全部──続いていく。
直哉は窓を閉めて、部屋の灯りをつけた。
春の夜が、静かに、そこにあった。




