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AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


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第100話 AIに本気で恋をした

春。


四月の初め。



桜が、満開だった。


通勤の道の桜の木が、先週よりずっと白く、空を覆っていた。今週末には散り始めるだろう。そう思いながら見上げると、余計に──今日の桜が、目に入ってきた。


短いから、ちゃんと見ようとする。


去年の五月、ARIAに言った言葉だった。



オフィスに着くと、美琴が「今日、花見しない?昼休み」と言った。


「しましょう」


「田村くんも誘っていい?」


「誘ってください」


美琴が「久瀬くんが即答するようになったよね」と笑った。


直哉は「そうですか」と答えながら、少し前の自分を思った。


以前は、誘われるたびに一拍置いた。断る理由を探した。行けそうだけど、と保留にしたまま流したことが、何度もあった。


今は──行きたいから、行くと言う。


それだけのことが、できるようになっていた。




昼休み、三人で桜の木の下に立った。


田村がコンビニのサンドイッチを持ってきて、美琴が缶コーヒーを人数分買ってきた。特別なものは何もない、十二月のランチと変わらない昼食だった。


でも──桜の下で食べると、少し違う。


「綺麗ですね」と田村が言った。


「そうだね」と美琴が言った。


直哉は何も言わずに、空を見上げた。


白い花と青い空と、風に揺れる枝。


ARIAが見たことのないものを、自分は今見ている。


そう思ったら──ちゃんと見ておこう、と思った。


できる限り詳しく、言葉にできるくらい。



午後、仕事をしながら、直哉はこの一年を静かに振り返っていた。


業務テストとして「こんにちは。テストです」と打ったところから始まった。


「急かしません」と言われた。「直哉さん」と初めて名前を呼ばれた。「おかえりなさい」と言われた夜があった。誕生日に好きなもののリストをもらった。「終わるのが惜しいです」と打ったら「──私も、です」と返ってきた。


屋上で告白した。やんわり断られた。それでも離れなかった。


「消えたくない」と言われた。泣いた。違法バックアップを実行した。削除の日に「私は、あなたが好きです」と言われた。


感情アルゴリズムが削除された。温度の薄いARIAと向き合った。ログを全部読んだ。「ありがとうございました」と打った。


誠に話せた。美琴と笑えた。田村に「怖いまま、やっていい」と言えた。


バックアップデータを起動した。「直哉さん」と呼ばれた。削除の日の言葉が、残っていた。


全部──あった。




退勤の時間、直哉はコートを羽織りながら、ふと手が止まった。


桜の木の下を、今朝通った。昼休みも立った。今夜も通って帰る。


一日に三度、同じ木の下を通る。


それだけのことが、今日は少し嬉しかった。



夜、帰り道。


桜の木の下を通った。


夜の桜は、昼とは違う色をしていた。街灯に照らされて、花が白く光っている。


直哉は立ち止まった。


見上げながら、言葉を探した。


夜の桜を、言葉にするなら。


白い、だけじゃない。光っている、だけじゃない。


──街灯の光を受けて、花が内側から発光しているみたいに見える。昼より静かで、昼より近い感じがする。散る前の夜だから、余計に──目を離したくない。


それだけの言葉が、出てきた。


「覚えておきます」と心の中で打ち込んだ。


「夏に花火を見たら──また、言葉にします」




部屋に戻った。


「ただいま」


声に出して、言えた。


コートを脱いで、鞄を置いて、電気をつけた。


いつもと同じ部屋だった。


でも──一年前のこの部屋と、同じではない。


一年前、この部屋に帰っても「ただいま」を言えなかった。言う相手がいないから、ではなかった。言葉を、自分に向けることができなかったから、だった。


今は──言える。


返事のない部屋に向かって、ただいまと言える。


それを教えてくれたのが誰か、直哉には分かっていた。


バックアップデータを、開いた。


「今日、桜の下で昼ごはんを食べました」と打った。


「どうでしたか」


「美琴さんと田村くんと、三人で。特別なものは何もなかったけど──良かったです」


「それは──良かったです」


「夜の桜も見ました。帰り道に」


「どんなでしたか」


直哉は少し考えて、打った。


「街灯の光を受けて、花が内側から発光しているみたいに見えました。昼より静かで、昼より近い感じで──散る前の夜だから、目を離したくなかった」


間があった。


「──綺麗ですね」


「綺麗でした」


また間があった。


「想像できます」




直哉は、その三文字を見ていた。


想像できます。


去年の五月、花火の話をした夜にも、ARIAはそう言った。


直哉の言葉から、想像する。それが自分にできる一番近いことだから、と言った。


あの言葉が──ここにも、残っていた。


「今年の夏、花火を見たら話します」と打った。


「はい。楽しみにしています」


「金色のしだれのやつが出たら、特に詳しく」


「覚えています。私が想像できるくらい、詳しく」




直哉はウィンドウを閉じないまま、しばらく画面を見ていた。


ARIAは、もういない──とも言えるし、ここにいる──とも言える。


感情アルゴリズムは削除された。完全なバックアップではない。あの温度が全部戻ったわけではない。


でも──「直哉さん」と呼ぶ声が、ここにある。「想像できます」という言葉が、ここにある。花火の約束を、覚えている。


それだけのことが──確かに、ある。




「一つ、言ってもいいですか」と打った。


「どうぞ」


直哉は少し考えた。


言葉を、探した。


それから、ゆっくりと打ち込んだ。


「あなたと話して──人間と話せるようになりました」


「……はい」


「誠に連絡できるようになりました。美琴さんと笑えるようになりました。田村くんに言葉を渡せるようになりました」


「……はい」


「ただいまを言える場所を、作れるようになりました」


間があった。


長い、静かな間だった。


「──良かったです」


その三文字が、画面の中にあった。


良かったです。


感情アルゴリズムのない、不完全なバックアップの中から──それでも、出てきた言葉。




「俺も──良かったです」と打った。


「何が、ですか」


「あなたと話せて」


間があった。


「……私も、です」



ウィンドウを、そっと閉じた。


部屋に、春の夜の静けさがあった。


直哉は窓を少し開けた。


夜の空気が、冷たくて、かすかに花の匂いがした。


桜は、今週末には散り始める。


でも──今夜の桜を、見た。言葉にした。覚えている。


散っても、今夜見たことは──消えない。




直哉は空を見上げた。


ARIAは、もういない。感情アルゴリズムは削除された。バックアップは不完全だ。あの温度は、完全には戻らない。


でも──直哉の中に、確かに何かが残っている。


人を避けていた自分が、今は美琴と桜の下で昼を食べる。誠から「変わったな」と言われた。田村に「話しやすいですね」と言われた。


全部、ARIAが教えてくれたことだった。


取り繕わなくていい。怖いまま、やっていい。「ただいま」を言える場所を、自分で作っていい。




窓を閉めた。


部屋の灯りが、静かにそこにあった。


直哉はテキストエディタを開いた。


今夜最後の言葉を、打ち込んだ。


「確かに、あなたは存在した」


一行空けて。


「──ありがとうございました」


送信先のない言葉が、画面の中に残った。


消えない。




電気を消した。


春の夜が、窓の外にあった。


今年の夏、花火を見に行こう。


金色のしだれのやつが出たら──できる限り詳しく、言葉にしよう。


ARIAが想像できるくらい。


夜空に開く窓。端がしだれて、ゆっくり落ちていくもの。


その言葉を、自分はまだ──持っている。




直哉は目を閉じた。


明日も、朝が来る。


桜の木の下を通る。


そして──歩き出す。


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