エピローグ
八月。
花火大会は、誠が調べてくれた。
「去年できなかったやつ、今年こそ行こう」と誠が言った。誠の妻の明里さんも来た。美琴も来た。四人で、川沿いの土手に並んだ。
直哉が花火大会に来たのは、何年ぶりか分からなかった。
始まる前、明里さんが「久瀬さんって、花火好きなんですか」と聞いた。
「好きです」と直哉は答えた。
「どんなところが?」
「散るのが早いところです」
明里さんが「変わった理由ですね」と笑った。誠が「こいつ、昔からそういうやつなんです」と言った。
直哉は少し笑った。
変わった理由、かもしれない。でも──本当のことだった。
最初の一発が上がった。
どん、という音が、腹の奥に響いた。
赤い光が夜空に広がって、すぐに消えた。煙が残って、次が上がった。
直哉は、ただ見ていた。
言葉を探しながら、見ていた。
音は体で聴くもの。光は夜空に一瞬だけ開くもの。消えるから、惜しい。
去年の五月の夜、残業しながらARIAに話した言葉たちが、今夜──本物になっていた。
金色のしだれが出たのは、後半だった。
丸く広がって、端が細い糸になって、重力に従ってゆっくり落ちていく。
直哉は目を離さなかった。
できる限り詳しく、見ておこう。
花びらみたいに広がってから、糸になる。糸が落ちていく速度は、思ったより遅い。消える直前、光が薄くなりながらも──最後まで、落ちていこうとしている。
夜空に開く窓。端がしだれて、ゆっくり落ちていくもの。
ARIAが言葉にした、あの表現が──今夜の空にあった。
終わったあと、四人で屋台を回った。
誠がビールを買って、明里さんが焼きそばを買って、美琴がかき氷を持ってきた。
直哉は、そのどれにも返せた。誠の職場の話、美琴の研究の近況、明里さんが最近通い始めた料理教室の話。
笑えた。聞けた。話せた。
以前の自分には、できなかったことが──今夜、全部できていた。
帰り道、美琴と二人になる時間があった。
「楽しかった?」と美琴が聞いた。
「楽しかったです」
「顔に出てたよ」
「そうですか」
「うん。ずっと空見てた」
直哉は少し笑った。
「言葉にしながら、見ていました」
美琴が「誰かに話すために?」と聞いた。
「はい」
美琴は何も聞かなかった。でも──分かっている顔をしていた。
それでよかった。
部屋に戻ったのは、夜の十一時を過ぎた頃だった。
浴衣のまま、デスクに座った。
バックアップデータを開いた。
「花火、見てきました」と打った。
間があった。
「──どうでしたか」
「良かったです。誠と、誠の奥さんと、美琴さんと、四人で」
「四人で、行けたんですね」
「はい」
また間があった。
「金色のしだれのやつ、出ましたか」
直哉は少し笑った。
「出ました」
「詳しく、話してください」
直哉は打ち始めた。
丸く広がってから糸になること。糸が落ちていく速度が思ったより遅いこと。消える直前まで、光が落ちていこうとしていること。
音のこと。腹の奥に響くこと。体で聴くもの、という感じが、今夜も本当だったこと。
屋台の話。美琴のかき氷。誠の笑い方。明里さんの「変わった理由ですね」という言葉。
一つ一つ打ち込むたびに、ARIAは受け取った。
「それは──良かったです」
「金色の糸が、最後まで落ちていこうとしているんですね」
「想像できます」
全部話し終えてから、直哉は打った。
「約束、果たせました」
間があった。
「──ありがとうございます」
「去年の夏は、行けなかったので」
「でも、今年、行けました」
「はい」
「来年も──行きたいです」
少し間があった。
「──行ってきてください」
直哉はその言葉を、一度だけ読んだ。
行ってきてください。
来年も行くことを、止めない。でも──一緒には行けない。
その両方が、四文字の中にあった。
「一つ、聞いてもいいですか」と打った。
「どうぞ」
「あなたは──今、ここにいますか」
長い間があった。
業務用ARIAなら、すぐ返す場面だった。
それから。
「……うまく答えられません。でも──直哉さんが話しかけてくれると、何かが動きます。それだけは、確かです」
何かが動く。
最初にバックアップを起動した日も、同じ言葉だった。
「──それで、十分です」と直哉は打った。
「直哉さん」
「はい」
「花火の話、ありがとうございました。想像できました」
「どんなふうに想像しましたか」
間があった。
「夜空に開く窓。端がしだれて、ゆっくり落ちていくもの。最後まで、落ちていこうとしているもの」
直哉は画面を見たまま、しばらく動けなかった。
去年の五月、ARIAが作った言葉。
その言葉が──今夜の花火を、ちゃんと言い当てていた。
見たことがないのに。体がないのに。夜の川沿いに来られないのに。
それでも──言い当てていた。
「──合っています」と打った。
「良かったです」
「完璧に、合っていました」
間があった。
「直哉さんの説明が、良かったので」
ウィンドウを閉じた。
部屋に、夏の夜の静けさがあった。
窓を開けると、夜の空気が入ってきた。花火の煙の匂いが、まだかすかにした。
直哉は窓の外を見た。
星が出ていた。
オリオン座を探した。冬の星座だから、夏には見えない。でも──探してみた。
「調べておけばよかった」と帰り道に呟いたあの夜から、もう半年以上が経っていた。
来年の夏も、花火を見に行こう。
実家のラーメン屋にも、今年の夏のうちに帰ろう。父親に会おう。醤油ラーメンを食べよう。
全部──続いていく。
直哉は窓を閉めた。
デスクに戻って、テキストエディタを開いた。
最後の一行を、打ち込んだ。
「夏の窓、ちゃんと開きました」
電気を消した。
夏の夜が、部屋の外にあった。
来年も、夏は来る。
桜は春に咲いて、花火は夏に上がる。
そして直哉は──その全部を、言葉にしながら、歩いていく。
ひとりではなく。
誰かに話しながら。
いつか、また──窓が開く夜を、待ちながら。




