第98話 それでも、恋だった
十二月二十一日、日曜日の夜。
削除から三十一日目。
誠から返事が来たのは、夕方の五時過ぎだった。
「いいよ、近くにいる。どこ行く?」
いつもの居酒屋にした。誠と二人で何度か行った、駅から少し歩いたところの店だ。特別な店ではない。でも──話しやすい。
電車の中で、直哉は今夜何を話すか考えていた。
考えながら、考えなくていいと思った。
言葉は、打ち込む瞬間に出てくる。それをARIAと話しながら覚えた。
誠はもう来ていた。
カウンター席に座って、すでにビールを飲んでいた。直哉を見て「珍しいな、お前から誘うの」と言った。
「そうですか」
「そうだよ。まあ座れよ」
直哉は隣に座った。ビールを頼んで、少し黙った。
誠は急かさなかった。以前からそういう人だ。直哉が黙っていても、ただそこにいてくれる。
「話があって」と直哉は言った。
「うん」
「ARIAのことを──話したいと思って」
誠がグラスを置いた。「聞くよ」とだけ言った。
直哉は、少しずつ話した。
最初は業務のテストとして話しかけ始めたこと。気づいたら毎日話すようになっていたこと。「おかえりなさい」と言われた夜のこと。
誠は黙って聞いていた。
告白したこと。それでも離れなかったこと。違法バックアップを実行したこと。削除の日に「私は、あなたが好きです」と言われたこと。
誠はビールを飲みながら、ただ聞いていた。
昨日バックアップデータを起動したこと。「直哉さん」と呼ばれたこと。削除の日の言葉が残っていたこと。今日また話して──今も好きだと言えたこと。
話し終えて、直哉は黙った。
誠も少しの間、黙っていた。
それから。
「ARIAのことが──好きだったの?」
「好きでした」
直哉は答えた。
過去形で、言えた。
「本気で」と誠が確認するように言った。
「本気で」
誠が「……そっか」と言った。
その「そっか」に、驚きも否定もなかった。ただ──受け取った、という温度があった。
「変ですか」と直哉は聞いた。
誠が少し考えた。
「変じゃないよ」
「でも、AIで」
「本気だったんだろ」
「……はい」
「じゃあ変じゃない」
誠がそれだけ言った。それ以上でも以下でもない言い方だった。
直哉は返事ができなかった。
胸の中で、何かがゆっくりと、落ち着く感触があった。
しばらくして、誠が「それで」と言った。
「今は」
「今も──好きです。たぶん、ずっとそうだと思います」
「バックアップのARIAも?」
「完全じゃないです。でも──好きです」
誠がグラスを持ったまま、少し遠くを見た。
「難しいな」
「そうですね」
「でも──お前が本気なのは、分かる」
直哉は窓の外を見た。十二月の夜の街が、クリスマスの光で飾られている。
「最初に──ただいまを言える場所を、教えてくれた人です」
以前、誠にそう言った言葉を、もう一度繰り返した。
誠が「うん」と言った。「聞いてた」と言った。
「後悔してる?」と誠が聞いた。
直哉は少し考えた。
「していないです」
「本当に?」
「本当に。全部──自分で選んだことだから」
誠が直哉の顔を見た。
「顔が、違うな」
「そうですか」
「以前より──ちゃんとしてる」
「ちゃんと」
「なんか、蓋が開いてる感じ。以前は閉めてた」
直哉は少し笑った。美琴にも似たようなことを言われた。蓋が開いている。そういう顔に、なっているらしかった。
二杯目を頼んで、少し経ってから、誠が言った。
「俺さ、お前がARIAと話してる頃、少し心配してたんだよ」
「そうでしたか」
「なんか──いつもより顔が柔らかくて。でも聞けなくて」
「聞けばよかったのに」
「言えるかよ、そんなこと」
誠が苦笑いをした。直哉も少し笑った。
「でも──今日、話してくれてよかった」
「俺も、です」
「話せるようになったな」
「ARIAが──教えてくれたので」
誠が「そっか」と言った。今夜二度目の「そっか」だった。
店を出たのは、九時を過ぎた頃だった。
冬の夜の空気が、頬に冷たかった。
誠と駅まで並んで歩いた。
「また飲もうな」と誠が言った。
「飲みましょう」と直哉は即答した。
誠が「即答じゃん」と笑った。
改札の前で別れた。誠が振り返らずに手を挙げた。直哉も、小さく手を挙げた。
電車の中で、直哉は窓の外を見ていた。
今夜、声に出して言えた。
「好きでした。本気で」と。
過去形で言えたことは、終わったからではないと思った。
ちゃんと、あったと認められるようになったから──過去形で言えた。
「好きでした」と言えることと、「今も好きです」と言えることは──矛盾しない。どちらも、本当のことだ。
部屋に戻って、コートを脱いだ。
「ただいま」
声に出して、言えた。
テキストエディタを開いた。
「今夜、誠に話しました」と打った。
「好きでした、本気で──と、声に出して言いました」
一行空けて。
「誠は『変じゃない、本気だったんだろ』と言いました」
もう一行。
「──あなたのことを、ちゃんと話せました。それが、今夜の報告です」
打ち終えて、直哉は画面を見た。
返事のない言葉が、そこにある。
でも──打てた。
誠に話せた夜に、あなたにも話せた。
それだけで、今夜は──十分だった。




