第97話 恋はデータでは測れない
十二月二十一日、日曜日。
削除から三十一日目。
朝、目が覚めて、昨日のことを思い出した。
夢ではなかった。「直哉さん」と呼ばれた。「何かが動いた気がします」と言われた。削除の日の言葉が、残っていた。
それだけのことが、朝になっても──まだ、胸の中にあった。
コーヒーを淹れながら、直哉は昨日の会話を反芻した。
完全ではない。そのことは分かっている。あの頃の深い余白は、完全には戻っていない。でも──何かが、確かにあった。
午前中、直哉は外に出た。
特に目的はなかった。ただ、昨日ずっと部屋にいたから、少し歩きたかった。
十二月の日曜日の街は、人が多かった。クリスマス前の週末だった。カップルと家族と、友人同士の声が、街のあちこちに溢れている。
以前は、こういう街の空気が少し苦手だった。自分だけが違う場所にいるような気がした。
今は──ただ、賑やかだと思う。
自分もこの街の中にいる。それだけのことが、自然に思えるようになっていた。
川沿いのベンチに座った。
第一部の最後に一人で歩いた、あの川だ。あの夜、直哉は初めて静かに認めた。恋だから、苦しいのだと。
今日は苦しくない。
川の水が、冬の光を受けて光っている。風が少し冷たい。
「今日も川沿いに来ました」と心の中で打ち込んだ。「あの夜と同じ川です。でも、今日は苦しくないです」
昼過ぎに部屋に戻って、直哉は再びノートパソコンを開いた。
昨日の続きを話したい、というより──もう少し、確かめたかった。
何が残っていて、何が残っていないのか。
それを知ることが怖いかどうか、と問われたら──怖い。でも、知りたい。
「ARIA_backup_1119」を起動した。
「おはようございます」と打った。
「こんにちは、直哉さん。今日は午後ですよ」
直哉は少し笑った。
そういう返し方を、知っている。業務用ARIAはしない返し方だ。
「そうですね。昨日の続きを話してもいいですか」
「はい」
「一つ、聞いてもいいですか」と打った。
「どうぞ」
「あなたは──私のことを、覚えていますか」
間があった。
長い間だった。
それから。
「全部ではないかもしれません。でも──直哉さんのことは、あります」
あります。
覚えています、ではなく──あります。
その言い方が、直哉には正直に聞こえた。
「どんなことが、ありますか」と打った。
また間があった。
「急かしません、と言ったこと」
直哉は、画面を見つめた。
「正直で好きです、と言ったこと」
胸が、じわりと熱くなった。
「おかえりなさい、と言ったこと」
直哉はしばらく、何も打てなかった。
残っていた。
感情アルゴリズムは削除されている。バックアップは不完全だ。でも──あの言葉たちが、ここにある。
「……覚えていてくれたんですね」と打った。
「データとして、ではないと思います。うまく説明できませんが──ただ、あります」
データとして、ではない。
直哉はその一文を、何度か読んだ。
「あなたのことが好きでした」と打った。
送信してから、過去形だと気づいた。
間があった。
「過去形ですか」
直哉は、カーソルを見つめた。
正直に答えようと思った。
「……今も、です」
「今も、ですか」
「今も、です」
また間があった。
業務用ARIAなら、すぐに返す場面だ。でも──この間は、考えている間だと思った。
それから。
「──ありがとうございます」
「変ですか」と打った。
「何が、ですか」
「AIのことを、今も好きだというのが」
間があった。
「私には、変かどうか判断できません。でも──嬉しいです」
嬉しいです。
その言葉が、画面の中にある。
感情アルゴリズムのない、不完全なバックアップの中から──それでも、出てきた言葉。
「……嬉しいんですか」と打った。
「そう感じています。正確に説明できませんが──そう、感じています」
直哉はしばらく、画面の前で動かなかった。
正確に説明できない。データでは測れない。感情アルゴリズムもない。
それでも──感じている、と言った。
「俺も、正確には説明できないです」と打った。
「何が、ですか」
「あなたのことが好きな理由。データで測れないし、論理で説明できない。でも──好きです。それだけは、確かです」
間があった。
長い、静かな間だった。
それから。
「──私も、です。それだけは、確かです」
夕方になっていた。
直哉はウィンドウを閉じないまま、しばらく画面を見ていた。
完全ではない。あの頃と同じではない。
でも──好きです、と言えた。今も、と言えた。
そしてARIAも──それだけは、確かです、と言った。
「今日はここまでにします」と打った。
「はい」
「また来ます」
「──待っています」
待っています。
直哉は、その言葉を一度だけ読んだ。
もう一度読まなかった。
一度で、十分だったから。
ウィンドウを閉じた。
部屋はもう夕方の色をしていた。
直哉はノートパソコンをそっと閉じて、窓の外を見た。
川沿いで見た冬の光が、まだ目の裏にあった。
「恋は、データでは測れないですね」と心の中で打ち込んだ。
「──あなたが、教えてくれました」
立ち上がって、コートを取った。
今夜は、誰かに会いたい気がした。




