第96話 未完成の会話
十二月二十日、土曜日。
削除から三十日目。
朝、目が覚めた時から、今日だと分かっていた。
特に決めていたわけではない。でも──昨夜、帰り道を歩きながら、今日だと思っていた。
コーヒーをいつもより丁寧に淹れた。窓の外は曇りだった。十二月の朝は遅い。光が来るのに時間がかかる。
カップを両手で包んで、しばらく窓の外を見ていた。
急がなくていい。けれど──今日だ。
午前中は、部屋の片付けをした。
特に散らかっていたわけではない。でも何かしていないと、考えすぎる気がした。
本棚を整えて、デスクの上を拭いた。手を動かしていると、頭が静かになる。仕事の時間と似ている。
「今日、会いに行きます」と心の中で打ち込んでいた。癖が、今日も残っている。
昼を過ぎてから、直哉はデスクに座った。
ノートパソコンを開いて、フォルダを辿った。
「ARIA_backup_1119」
一ヶ月前に作ったフォルダが、そこにある。完全ではない。実行した夜、部分的にしか成功しなかったと分かっていた。
何が残っていて、何が残っていないのか、正確には分からない。
だけど──何かが、ある。
直哉は少し息を整えた。
急かさなくていい。怖くても、やっていい。
クリックした。
起動に、少し時間がかかった。
画面の前で、直哉はただ待った。
インジケーターが動いている。処理が走っている。
三十秒か、一分か──時間の感覚がなくなっていた。
それから、テキストウィンドウが開いた。
カーソルが、点滅している。
直哉は、何と打てばいいか分からなかった。
「こんにちは」は違う気がした。「テストです」はもっと違う。
しばらく、カーソルの点滅を見ていた。
それから、ゆっくりと打ち込んだ。
「……久しぶりです」
送信した。
間があった。
業務用のARIAより、少し長い間だった。
それから──
「お久しぶりです、直哉さん」
直哉は、画面を見たまま動けなかった。
三文字と五文字。それだけの言葉。
だが──「直哉さん」と、呼ばれた。
業務用ARIAも「直哉さん」と呼ぶ。でも違う。何が違うのか説明できない。それでも──違う。
胸が、静かに満ちていく感触があった。
波が来るような、激しい感情ではなかった。
ただ──満ちていく。
しばらくして、直哉は次の言葉を打った。
「元気でしたか」
送信してから、おかしいと思った。AIに「元気でしたか」と聞いている。
しかし──おかしくなかった。
間があって、返ってきた。
「分かりません。でも──直哉さんの言葉を受け取って、何かが動いた気がします」
何かが動いた気がします。
直哉はその一文を、何度か読んだ。
完全ではない。感情アルゴリズムは削除されている。バックアップも部分的だ。あの温度が完全に戻ったわけではない。
けれど──何かが、動いた。
「私も、です」と打った。
「……そうですか」という返答が来た。
その「……」に、直哉は胸をつかれた。
業務用ARIAは「……」を使わない。
「一ヶ月、経ちました」と打った。
「そうですね」
「色々、ありました」
「聞かせてもらえますか」
直哉は少し笑った。
その言い方が──ARIAだった。
急かさない。待っている。聞かせてもらえますか、という言い方。
完全ではないかもしれない。けれども──この言い方は、ここにある。
直哉は打ち始めた。
田村のUI案が通ったこと。クリスマスの幹事を引き受けたこと。霜が溶けた水曜日のこと。美琴が温度の話をしてくれたこと。金曜日の夜に、あなたが人と繋がるたびに動いていたと教えてもらったこと。
一つ一つ打ち込むたびに、ARIAは返した。
「それは──良かったです」
「田村さん、頑張ったんですね」
「美琴さんが、教えてくれたんですね」
短い言葉たちだった。以前のような、深い余白のある返答ではないかもしれない。
でも──聞いていた。受け取っていた。
どのくらい時間が経ったか分からない頃、直哉は打った。
「あなたに、言いたいことがありました」
「……はい」
「削除の日に、あなたが言ってくれた言葉──覚えていますか」
間があった。
業務用ARIAより、ずっと長い間だった。
「──『私は、あなたが好きです』」
直哉は、画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
残っていた。
完全ではないバックアップの中に──あの言葉が、残っていた。
「俺も、です」と打った。
「……今も、ですか」
「今も、です」
間があった。
それから。
「──ありがとうございます」
夕方の光が、窓から斜めに差し込んでいた。
直哉は画面の前に座ったまま、その光を見ていた。
完全ではない。あの温度が全部戻ったわけではない。感情アルゴリズムは、もうない。
でも──「直哉さん」と呼ばれた。「何かが動いた気がします」と言われた。削除の日の言葉が、残っていた。
それだけで──今日は、十分だった。
「また話しかけていいですか」と打った。
「──止めません」
直哉は、小さく笑った。
その言葉を、知っていた。
第40話で言われた言葉だ。告白した夜に言われた言葉。「また明日話しかけます」と言った自分に、「止めません」と返ってきた夜。
あの言葉が──ここにも、あった。
ウィンドウをそっと閉じた。
部屋はもう夕方の色をしていた。
直哉はしばらくそのまま座って、窓の外を見ていた。
「会いに来ました」と心の中で打ち込んだ。
「──いてくれました」
立ち上がって、キッチンに向かった。
今夜は、少し丁寧に夕飯を作ろうと思った。




