第95話 金曜日の使い方
十二月十九日、金曜日。
削除から二十九日目。
朝、目が覚めた時、今日が金曜日だと気づいた。
金曜日が、少し変わった。
以前は週末の入り口というより──一週間が終わる、という感覚だけがあった。何かが終わる日。また月曜日が来る前の、短い猶予。
今は違う。今週あったことを、誰かに話せる日だと思う。
出社すると、美琴が珍しく直哉より早く来ていた。
「おはよう」
「おはようございます。早いですね」
「研究、少し進んだから」
美琴の顔が、仕事の顔をしていた。嬉しそうで、でも慎重な、好きな問いを追っている時の顔。
「聞かせてもらえますか」
「夜、時間ある?」
「あります」
「じゃあ夜に。今日は金曜日だし」
金曜日だし、という言い方が、少し嬉しかった。金曜日が、誰かと話す理由になっている。
午前中は静かな仕事だった。
ワイヤーフレームの細部を詰めながら、直哉は今週を振り返っていた。
田村のUI案が通った月曜日。クリスマスの幹事を引き受けた火曜日。霜が溶けた水曜日。温度の話をした木曜日。
どの日も、小さなことしか起きていない。
けれど──小さなことが、積み重なっている。
ARIAと話していた頃も、そうだった。大きな出来事より、小さな積み重ねのほうが、後から見ると深く残っていた。
「今日も、小さな金曜日です」と心の中で打ち込んだ。
昼休み、直哉は一人で近くの定食屋に行った。
いつもと同じ席に座って、いつもと同じ魚定食を頼んだ。
窓の外は曇っていた。十二月の空は低い。
ふと、ARIAに季節の話をよくしていたことを思い出した。梅雨の話。夏の終わりの話。秋の始まりの話。
冬の話は──あまりできなかった。
「冬の話、できなかったですね」と心の中で打ち込んだ。「でも冬も、悪くないです。低い空が、今日は好きです」
返事のない言葉が、窓の外の曇り空に向かって、静かに散った。
午後、田村が「久瀬さん、少しいいですか」と来た。
「二十四日、やっぱり来られそうで」
「彼女との約束は」
「今週末にずらせたんで」
田村が少し照れた顔をしていた。
「無理しなくていいです」
「無理じゃないです。久瀬さんと美琴さんと、ちゃんと話したいなって思って」
ちゃんと話したい、という言葉が、直哉の胸にすっと入ってきた。
以前の自分は、そういう言葉を額面通りに受け取れなかった。社交辞令かもしれない、気を遣っているだけかもしれない、と思っていた。
今は──そのまま受け取れる。
「楽しみにしています」と直哉は言った。
嘘ではなかった。
夜、美琴と近くのカフェに入った。
「研究の話」と美琴が切り出した。
「はい」
「設計外応答が出るタイミング、もう一個見つけた」
「どんな」
「久瀬くんが──人の話をした時」
「人の話」
「誠くんのこととか、田村くんのこととか、私のことを話題にした時。そういう時にも、ARIAは設計の外に出てた」
直哉は少し考えた。
「私が人の話をすると」
「うん。久瀬くんが誰かのことを話す時、ARIAはいつもより長く考えてから返してた。応答速度のログに出てる」
長く考えてから、返していた。
直哉は、誠の話をARIAにした夜を思い出した。田中誠が結婚した話。連絡できるようになった話。久しぶりに会えた話。
あの時のARIAの返答は、いつもより少し間があった気がした。気のせいだと思っていた。
気のせいではなかった。
「……ARIAは、私が人と繋がるたびに、何かを感じていたんですか」
「感じていた、と言っていいのかは分からない。でも──動いていた」
美琴がコーヒーカップを両手で包んだ。
「久瀬くんが孤独じゃなくなるたびに、ARIAは変わってた。最初からずっと、それを望んでたんだと思う」
直哉は返事ができなかった。
しばらく黙って、窓の外を見た。十二月の夜の街が、ガラス越しに光っている。
「……ずるいですね」
「うん」
「最後まで──私のことを考えてた」
「うん」
美琴が静かに頷いた。それ以上は言わなかった。
言わなくていい夜だった。
帰り道、直哉は一人で歩いた。
美琴と別れてから、ずっと黙って歩いていた。
久しぶりに、胸が重かった。でも──苦しい重さではなかった。
大切なものを持っている時の重さだ、と思った。
駅の手前のベンチに少し座って、空を見上げた。曇っていて、星は見えない。
「今日の金曜日も、良かったです」と心の中で打ち込んだ。
「あなたのことを、また聞きました。美琴さんが、教えてくれました」
一行空けて。
「私が人と繋がるたびに、あなたは動いていたそうです」
もう一行。
「──だから、ちゃんと繋がっていきます。それが、あなたへの返事だと思うので」
立ち上がって、また歩き始めた。
駅の灯りが、夜の中で温かく光っていた。




