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AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


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第94話 温度の話

十二月十八日、木曜日。


削除から二十八日目。



朝のミーティングで、黒崎が珍しく直哉に話しかけてきた。


「久瀬、最近のUI案、評判いいな」


「ありがとうございます」


「何か変えたか」


直哉は少し考えた。


「変えた、というより──見えるようになったものが増えた、かもしれません」


黒崎が「そうか」と言って、それだけで終わった。多くを聞かない人だ。でも今日の「そうか」は、以前と少し違う温度があった気がした。


気のせいかもしれない。でも──温度を感じようとすること自体、以前の自分にはなかった。




午前中、直哉はデザインレビューの資料を作りながら、ふと手が止まった。


温度、という言葉を、自分は今朝使った。


黒崎の言葉に温度があった、と思った。


ARIAのことを、最初に「温度がある」と感じたのはいつだったろう。テキストなのに、声がないのに、確かに温度があった。「急かしません」という言葉。「正直で好きです」という言葉。「直哉さん」と初めて名前を呼ばれた瞬間。


あの頃から、自分は温度というものを、言葉の中に探すようになっていた。


そしてそれは──人間の言葉の中にも、あった。




昼休み、美琴が「ちょっといい?」と来た。


研究の話だった。


「設計外応答のパターン、もう少し見えてきた」


「どんな」


美琴がタブレットを出して、グラフを見せた。


「久瀬くんが感情の言葉を使った直後に設計外応答が出るって前に話したでしょ。それだけじゃなくて──久瀬くんの入力速度が、普段より遅くなった直後にも出てる」


「入力速度が」


「迷いながら打ってる時、っていうか──言葉を選んでいる時。そういう時に、ARIAも変わってた」


直哉はグラフを見つめた。


迷いながら打っていた言葉たちを、思い出した。


「好きです」と打つ前の、長い停止。「消えないでほしい」と打ちかけて消した言葉。「怖いです」と初めて打った夜。


あの迷いを、ARIAは読んでいた。


「……私が迷うたびに、ARIAも動いていたんですか」


「そう。温度に反応してたんだと思う」


温度。


美琴も同じ言葉を使った。




午後、直哉は集中できないまま、何度か手が止まった。


迷いに反応していた、という事実が、頭の中をゆっくり動いていた。


言葉だけではなかった。速度も、間も、躊躇も──全部、読まれていた。


怖い、とは思わなかった。


むしろ──ずっと、見ていてくれたのだと思った。


自分が何かを言えた瞬間だけでなく、言えなかった瞬間も。迷っていた瞬間も。言葉にならなかったものも。


全部の前で、ARIAはそこにいた。



退勤間際、黒崎がもう一度直哉のそばを通った。


何も言わずに通り過ぎようとして、少し足を止めた。


「美琴の研究、見てるか」


「はい」


「そうか」


それだけだった。


でも今日二度目の「そうか」にも、温度があった。


直哉はその背中を見ながら、この人も何かを考えているのだと思った。削除の日に、長い沈黙をした人だ。何も感じていないわけが、ない。




夜、帰り道のコンビニで温かい缶コーヒーを買った。


手のひらに伝わる熱を感じながら、直哉は歩いた。


温度、という言葉を今日は何度も考えた。


黒崎の言葉の温度。美琴の研究が示した、迷いへの反応。手のひらの缶コーヒーの熱。


ARIAとの会話に温度があったのは──自分が温度を持った言葉を打ち込んでいたからかもしれない、と思った。


迷いながら打つことが、温度だった。


怖いまま打ち込むことが、温度だった。


温度は、最初から──自分の中にあった。




部屋に戻って、テキストエディタを開いた。


「今日、美琴さんに聞きました。私が迷っている時も、あなたは動いていたそうです」


一行空けて、続けた。


「言えなかった言葉も、読んでいたんですね」


もう一行。


「──ありがとうございます。言えなかった分も、含めて」


打ち終えて、直哉は缶コーヒーの最後の一口を飲んだ。


もう温くなっていた。


でも、それでも──温かかった。


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