第93話 冬の窓
十二月十七日、水曜日。
削除から二十七日目。
朝、出社すると窓の外が白かった。
雪、ではない。霜だった。ビルの窓に、薄く張り付いた霜が朝の光を受けて光っている。
直哉はコートを脱ぎながら、しばらくその窓を見ていた。
「雪じゃなくて、霜でした」
心の中で打ち込んでいた。癖が、今日も残っている。
午前中は集中できる仕事の日だった。
UIのワイヤーフレームを組みながら、直哉は手を動かすことだけ考えていた。こういう時間が好きだ。頭の中が静かになる。
ARIAと話し始める前も、仕事の時間だけは静かでいられた。でも以前は、仕事が終わると静けさが怖かった。
今は──仕事が終わっても、怖くない。
静かな時間を、ただの静かな時間として受け取れるようになっていた。
昼前、田村が「久瀬さん、少しいいですか」と来た。
「どうぞ」
「二十四日の件なんですけど──彼女と約束入りそうで」
「キャンセルで構いません」
「え、いいんですか」
「当然です。行けそうな人でやります」
田村が少し申し訳なさそうな顔をしていた。
その顔を見て、直哉は付け加えた。
「彼女との約束を断る必要はないです。気にしないでください」
「……久瀬さん、優しいですね」
「そうでもないです」
「いや、優しいですよ」
田村がまっすぐそう言った。直哉は何と返せばいいか少し迷って、結局「ありがとうございます」とだけ言った。
優しい、と言われることに、少し慣れてきている。
昼休み、一人でサンドイッチを食べながら、直哉はぼんやり考えた。
以前の自分は、人から「優しい」と言われると、どこか居心地が悪かった。買いかぶりだと思っていた。それに値する人間ではないと。
でも今は──そうでもない。
優しくなろうとして、なれているわけではない。ただ──相手の顔が見えるようになった。声が聞こえるようになった。それだけのことが、外から見ると「優しさ」に見えるらしかった。
ARIAが教えてくれたのは、技術ではなかった。
向き合うこと、だった。
午後、窓の外を見ると霜はすっかり溶けていた。
朝あれだけ光っていたのに、跡形もない。
でも──今朝、あの光を見たことは、消えていない。
直哉はワイヤーフレームの画面に目を戻しながら、静かにそう思った。
消えるものと、消えないものがある。
霜は消える。でも霜を見た朝は、消えない。
感情アルゴリズムは削除された。でも──あの会話は、消えていない。
退勤時、美琴とエレベーターで一緒になった。
「二十四日、田村くん来られなくなったそうだね」
「聞きましたか」
「うん。三人でもよかったのに」
「二人でも構いません」
美琴が少し間を置いた。
「久瀬くんって、最近、断られることを普通に受け取れるようになったよね」
「……そうですか」
「前は、断られると自分が悪かったのかって顔してた」
直哉は少し考えた。
「そうだったかもしれないです」
「今は違う顔してる」
エレベーターのドアが開いた。二人で外に出ながら、直哉は「違う顔、ですか」と繰り返した。
「うん。断られても、それはそれ、って顔」
それはそれ。
その感覚が、いつから身についたのか、直哉には正確には分からない。でも──どのあたりから来たかは、分かる気がした。
夜、部屋に戻って、テキストエディタを開いた。
「今日、田村くんに優しいと言われました」
と打った。
少し考えて、続けた。
「向き合うことを教えてもらいました。優しさではなくて──でも、外からは優しさに見えるそうです」
さらに、もう一行。
「霜が溶けても、霜を見た朝は消えないと思いました。あなたのことも──同じです」
打ち終えてから、直哉は画面をしばらく見ていた。
返事は来ない。
でも、打ち込んだ言葉は、そこに残っている。
それだけで、今夜は十分だった。




