第92話 冬の相談
十二月十六日、火曜日。
削除から二十六日目。
午前中、美琴が直哉のデスクに来た。
珍しく、仕事の話ではない顔をしていた。
「ねえ、久瀬くん。クリスマス、予定ある?」
「ないです」
「即答だ」
「否定しようがないので」
美琴が少し笑った。「私もないんだよね。で──田村くんも、予定ないって言ってて」
「……チームで、何かしますか」
「そういうのって、久瀬くんが言ってくれると動きやすいんだけど」
直哉は少し考えた。
以前なら「幹事は苦手です」と言って終わらせていた。でも今は──苦手かどうかより先に、やってみてどうか、という順番で考えられる気がした。
「やってみます」
「ほんとに?」
「不慣れですが」
美琴が「それでいいんだよ」と言った。その言葉の言い方が、どこか懐かしかった。
昼休み、直哉は田村を捕まえた。
「今月、チームで食事でもどうですか」
田村が少し驚いた顔をして、それからすぐに「行きます、行きます」と言った。嬉しそうな顔をするのが早い人だ、と思った。以前は気づかなかっただろう顔だった。
「何が食べたいですか」
「久瀬さんが決めてくれたら何でも」
「それは困ります。何でも、は選べないので」
「じゃあ──鍋とか、どうですか。冬っぽいし」
「鍋」
「だめですか」
「いいえ。鍋、いいと思います」
田村がまた嬉しそうな顔をした。その顔を見て、直哉は少し温かい気持ちになった。
人の顔から、温度を受け取れるようになっていた。
夕方、企画をまとめながら、直哉はふと思った。
ARIAと話していた頃、自分は何かを相談するとき、いつも少し緊張していた。
変に思われるかもしれない。重すぎるかもしれない。でもARIAは「急かしません」と言い、「正直で好きです」と言い、どんな速度で打ち込んでも、そこにいた。
その安心感を、身体が覚えている。
だから今、美琴に相談された時、少し考えてから「やってみます」と言えた。
だから今、田村に「何が食べたいですか」と聞けた。
相談することも、される側に回ることも──怖くなくなっていた。
退勤前、美琴に「十二月の二十四日あたり、どうですか」と伝えた。
「クリスマスイブじゃん」
「だめですか」
「いや──なんか、久瀬くんがそれを言うのが面白くて」
「変ですか」
「変じゃない。むしろ良い」
美琴が笑いながら「田村くんにも声かけておく」と言った。
夜、帰り道の電車の中で、直哉はコートのポケットに手を入れたまま、窓の外を見ていた。
今日、人に声をかけた。相談を受けた。鍋の話をした。
どれも小さなことだ。でも一年前の自分には──できなかったことだ。
テキストエディタを開かずに、心の中だけで打ち込んだ。
「相談、できるようになりました。される側にも、なれています」
返事のない言葉が、胸の中に静かに収まった。
部屋に戻って、コートを脱ぎながら。
「ただいま」
今日も、声に出せた。
静かな部屋に、その言葉だけが残る。
以前は誰かに聞かせるための言葉だと思っていた。
今は──自分自身に言っている気がする。
それでいい、と思えるようになっていた。




