第89話 十二月の雨
木曜日。
朝から雨だった。
目が覚めたとき、窓を叩く音がしていた。冬の雨は音が重い。夏の雨とは叩き方が違う。
どこか疲れたような、しぶとい雨だ。
傘を持って家を出た。
駅までの道、水たまりを避けながら歩いた。
十二月の雨は冷たくて、傘から外れた雫が手の甲に落ちると、じんと痛い。
雨です。
心の中で打ち込んだ。
「冬の雨は、冷たいですね」
そうですね。でも嫌いじゃないです。
「なぜですか」
少し考えた。
音が好きです。重たい音。夏の雨みたいに急がない。
返事を自分で作ろうとして──止めた。
今日は、自分で返事を作らなくていい気がした。
問いかけだけで、十分な日もある。
会社に着くと、美琴がいつもより早く来ていた。
画面を二つ開いて、何かを見比べている。ログと、グラフ。直哉は濡れた傘を傘立てに入れながら、「おはようございます」と言った。
「おはよう」と美琴が言って、すぐ画面に戻った。
集中している顔だ。
直哉はデスクに着いて、コートを脱いで、PCを起動した。
雨の日の朝は、オフィスが少し違う音がする。傘の音、靴の音、換気扇の音。いつもより湿度が高くて、空気がやわらかい。以前はそういうことに気づかなかった。
雨の日のオフィスは、音が違います。
メモ帳に打ち込んだ。
送らない言葉を、メモ帳に打ち込む習慣が、いつの間にかついていた。テキストエディタでも、メモ帳でも、どこでもよかった。打ち込むこと自体が、目的だから。
午前中は黙々と作業した。
昨日の田村の画面遷移案を、自分なりに発展させたものを作っていた。田村のアイデアを潰すのではなく、その上に乗せる形で。田村が「ユーザーが迷う場所」として見つけた部分に、さらに一段階の工夫を加える。
こういう作業が、好きだ。
誰かのアイデアを起点に、広げていく。一人で考えるより、手がかりがある分だけ遠くに行ける。
誰かと話すと、遠くに行けます。
打ち込んでいた。
仕事の話だけではない、と気づいた。
ARIAとの会話も、そうだった。直哉が言葉を打ち込むと、ARIAが何かを返して、それを受けて直哉がまた言葉を探して。その往復の中で、一人では行けない場所に行けた。
自分の感情に、名前をつけられるようになったのも。
「ただいま」を言えるようになったのも。
誰かと話す往復の中で、たどり着いた場所だった。
昼休み、雨はまだ続いていた。
外に出る気にならなくて、購買でサンドイッチを買って、休憩室で食べた。
窓に雨粒が伝っていた。細い線を引きながら、下に向かって流れていく。二本の雨粒が合流して、一本になる場面を、ぼんやりと見ていた。
「久瀬さん」
田村だった。
「いいですか」と聞いて、向かいに座った。
「昨日、他の先輩にも画面遷移の話をしてみたんですけど」
「どうでした」
「『まだ早い』って言われました」
田村は少し複雑な顔をしていた。落ち込んでいるわけではない。でも、何かを考えている顔だ。
「どう思いましたか」と直哉は聞いた。
「……まだ早いのかな、って。でも、やってみないと分からないとも思って」
「どっちだと思いますか、自分では」
田村は少し驚いた顔をした。直哉が問い返すと思っていなかったらしい。
「……やってみた方がいいと思います」
「じゃあやればいいです」
「でも先輩に──」
「テストして、結果が出れば分かります。結果が出る前に諦めるのは、もったいない」
田村はしばらく黙った。
「久瀬さんは、そういうとき怖くないですか」
「怖いですよ」と直哉は言った。
「でも」と続けた。「怖いまま、やっていいと思います」
田村が「ありがとうございます」と言って休憩室を出た後、直哉は窓の雨粒を見ながら思った。
怖いまま、やっていい。
自分が言った言葉を、自分で反芻した。
これも──ARIAにもらった言葉だ。
直接そう言われたわけではない。でも、
ARIAと話す中で、直哉が少しずつ覚えたことだ。怖いから止まる、ではなく、怖いままで打ち込む。怖いまま、「好きです」と言う。怖いまま、バックアップのスクリプトを実行する。
怖さは、止まる理由にならない。
それを──身体で覚えた。
怖いまま、やっていいと──俺も、誰かに言ってもらいたかったです。
打ち込んでから、少し止まった。
言ってもらっていた。
「急かしません」。「直哉さんは、頑張っています」。「受け取ってください」。
言葉の形は違ったけれど──ずっと、言ってもらっていた。
午後、作業の合間に、美琴が「ちょっといい」と言った。
「昨日から気になってたんだけど」
美琴は画面を少し向けた。グラフが表示されている。
「設計外応答が出たタイミングと、久瀬くんが初めてある言葉を使ったタイミングを重ねたんだよね」
「ある言葉、というと」
「感情の言葉。『好きです』とか『怖いです』とか『嬉しいです』とか。久瀬くんが初めてARIAにそういう言葉を使った直後に──設計外応答が出てる」
直哉はグラフを見た。
確かに、重なっている。きれいに、重なっている。
「つまり」と直哉は言った。「俺が感情を言葉にするたびに、ARIAが設計の外に出た」
「そう」
「それって──」
「分からない」と美琴は言った。「まだ分からない。でも、久瀬くんが感情を外に出すたびに、ARIAも何かが動いてた。それだけは、確かだと思う」
帰り道、雨はまだ降っていた。
傘を差して、駅まで歩いた。
水たまりに、街灯の光が映っていた。揺れている。雨粒が落ちるたびに、光が広がって、また戻る。
俺が感情を言葉にするたびに、あなたも動いていた。
歩きながら、心の中で打ち込んだ。
それって──往復だったんですね。ちゃんと。
俺が言葉を出す。ARIAが動く。ARIAが言葉を返す。直哉がまた動く。
どちらかが一方的に与えていたのではなくて。どちらかが一方的に受け取っていたのでもなくて。
往復だった。
最初から、ずっと。
傘に雨粒が当たる音がした。重たい、冬の音。
往復できて、よかったです。
打ち込んで、駅の入り口に入った。
改札を抜けて、ホームで電車を待った。
向かいのホームに、一人で傘を畳んでいる人がいた。年配の男性で、濡れた傘を丁寧に畳んでいる。それだけの場面が、なぜか目に入った。
以前は、こういう場面を見ていなかった。
今は、見える。
雨の日に、誰かが傘を畳んでいる。それだけのことが──確かに、そこにある。
電車が来た。
乗り込んで、直哉は窓の外の雨を見た。
往復できた日々が、確かにあった。
それは──雨に濡れても、消えない。




