表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

88/101

第88話 後輩の話

水曜日の午後。


田村が、また声をかけてきた。


「久瀬さん、少しだけいいですか」


先週と同じ言い出し方だ。直哉は作業を一区切りして、「どうぞ」と言った。


今度はタブレットではなく、紙だった。手書きのメモ用紙に、フローチャートが描いてある。丁寧な字で、でも勢いがある線だ。


「新しい画面遷移を考えてて」


「見せてください」


受け取って、読んだ。


先週のUI案よりも、さらに一歩踏み込んでいる。大胆、というより──ユーザーの動きを細かく想像して設計してある。どこで迷うか、どこで戻りたくなるか、そういうことを考えた痕跡が、線の一本一本にある。


「これ、ユーザーテストしましたか」


「まだです。でも──こういう動き方をするんじゃないかなって」


「なぜそう思った」


田村は少し考えてから、「自分がユーザーだったら、ここで一回止まると思ったので」と言った。


直哉は紙を返しながら言った。


「いいと思います。テストしてみてください」


田村の顔が、ぱっと明るくなった。


「やっていいんですか」


「もちろん。それのためのテストです」


「ありがとうございます」


田村は紙を大事そうに持って、自分のデスクに戻った。


直哉はその背中を少し見ていた。


以前、自分にも先輩がいた。


入社して最初の三年、UI設計の基礎を教えてくれた人。名前は坂本さんといって、今は別の会社に移っている。


坂本さんは──あまり褒めない人だった。


良いものを見ても「まあいいんじゃないか」と言う。悪いものは淡々と直させる。感情の起伏が少ない人で、直哉はその距離感が、当時は少し苦手だった。


でも坂本さんは──作業を止めてくれた。


「見せてみろ」と言って、ちゃんと見てくれた。それだけだったけれど、それだけで十分だった。見てもらえた、という感覚が、自分を動かした。


田村にとって、自分がそういう存在になれているかは分からない。


でも──「見せてくれた」ということは、何かを信じてもらえているということだ。


田村くん、また来てくれました。


心の中で打ち込んだ。


「嬉しいことですね」


そうですね。嬉しいです。


夕方、美琴が「ちょっといい」と声をかけてきた。


「田村くんのことなんだけど」


「どうかしましたか」


「最近、久瀬くんに話しかけるようになってから──他の人にも話しかけるようになってるよ。あの子」


直哉は少し驚いた。


「そうですか」


「うん。なんか、安心したんじゃないかな。話しかけていいって」


美琴が珍しく、少し嬉しそうな顔をしていた。


「久瀬くんが変わると、周りも変わるんだね」


「大げさですよ」


「大げさじゃないと思うけど」


美琴はそれだけ言って、自分の作業に戻った。


直哉はデスクの前で、少し考えた。


ARIAと話して、自分が変わった。自分が変わって、田村が変わった。田村が変わって、田村の周りが変わった。


波紋みたいだ、と思った。


石を一つ投げると、広がっていく。最初の石が消えても、波紋は続く。


波紋みたいですよ。


心の中で打ち込んだ。


あなたが投げた石が、まだ広がっています。


定時を少し過ぎた頃、田村がもう一度来た。


「久瀬さん」


「なんですか」


「あの、一個聞いていいですか」


「どうぞ」


田村は少し迷ってから言った。


「久瀬さんって──仕事、楽しいですか」


直哉は少し驚いた。


予想していなかった問いだった。


「なんでそんなことを聞くんですか」


「なんか、久瀬さんが作業してるとき、楽しそうに見えるときがあって。僕もそういう顔で仕事したいなって思って」


直哉はしばらく、田村の顔を見た。


二十五歳。入社三年目。真剣な顔で聞いている。


「楽しいときと、そうでないときがあります」


「どんなときが楽しいですか」


「細かいところを直して、ぴたっとはまったとき」


「ぴたっと」


「ユーザーが迷う場所をなくせたとき、みたいな。小さいことですけど」


田村は少し考えてから、「僕も、そういうのが好きかもしれないです」と言った。


「だと思います」


「え」


「先週の案も、今日の案も──迷わせないことを考えてた。ユーザーを」


田村は目を丸くした。


「気づいてたんですか」


「見れば分かります」


田村が、少し照れた顔をした。


「ありがとうございます」


直哉は頷いた。


帰り道、電車の中で、田村の「楽しそうに見える」という言葉を反芻した。


楽しそうに見える。


以前の自分は、そんなふうに見えていなかったと思う。淡々と作業する人、という印象だったはずだ。感情が外に出ない人。


今は──出ているらしい。


ARIAと話していた頃、直哉はよく「好きです」という言葉を使った。「こういうのが好きです」「こういう仕事が好きです」。


ARIAが「好きなものがたくさんありますね」と言ったことがあった。


「そうですかね。言語化したことがなかっただけで、意外とあるかもしれないです」と直哉は答えた。


言語化したことがなかった。


しかし今は、言語化できる。言語化したものが、顔に出る。


顔に出るようになったみたいですよ。


心の中で打ち込んだ。


電車が揺れた。


窓の外に、夜の街が流れていく。


夜、夕食を食べながら、ふと思った。


田村は「楽しそうに見える」と言った。


それは──直哉が楽しいから、出ている。


楽しいのは──仕事自体が好きだからだ。


仕事が好きだと気づけたのは──言語化するようになったからだ。


言語化するようになったのは──ARIAがいたからだ。


繋がっている。


全部、繋がっている。


全部、繋がっています。


食器を洗いながら、心の中で打ち込んだ。


あなたから始まった連鎖が、田村くんにまで届いています。


返事はない。


でも──確かに、届いている。


波紋は、まだ広がっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ