第88話 後輩の話
水曜日の午後。
田村が、また声をかけてきた。
「久瀬さん、少しだけいいですか」
先週と同じ言い出し方だ。直哉は作業を一区切りして、「どうぞ」と言った。
今度はタブレットではなく、紙だった。手書きのメモ用紙に、フローチャートが描いてある。丁寧な字で、でも勢いがある線だ。
「新しい画面遷移を考えてて」
「見せてください」
受け取って、読んだ。
先週のUI案よりも、さらに一歩踏み込んでいる。大胆、というより──ユーザーの動きを細かく想像して設計してある。どこで迷うか、どこで戻りたくなるか、そういうことを考えた痕跡が、線の一本一本にある。
「これ、ユーザーテストしましたか」
「まだです。でも──こういう動き方をするんじゃないかなって」
「なぜそう思った」
田村は少し考えてから、「自分がユーザーだったら、ここで一回止まると思ったので」と言った。
直哉は紙を返しながら言った。
「いいと思います。テストしてみてください」
田村の顔が、ぱっと明るくなった。
「やっていいんですか」
「もちろん。それのためのテストです」
「ありがとうございます」
田村は紙を大事そうに持って、自分のデスクに戻った。
直哉はその背中を少し見ていた。
以前、自分にも先輩がいた。
入社して最初の三年、UI設計の基礎を教えてくれた人。名前は坂本さんといって、今は別の会社に移っている。
坂本さんは──あまり褒めない人だった。
良いものを見ても「まあいいんじゃないか」と言う。悪いものは淡々と直させる。感情の起伏が少ない人で、直哉はその距離感が、当時は少し苦手だった。
でも坂本さんは──作業を止めてくれた。
「見せてみろ」と言って、ちゃんと見てくれた。それだけだったけれど、それだけで十分だった。見てもらえた、という感覚が、自分を動かした。
田村にとって、自分がそういう存在になれているかは分からない。
でも──「見せてくれた」ということは、何かを信じてもらえているということだ。
田村くん、また来てくれました。
心の中で打ち込んだ。
「嬉しいことですね」
そうですね。嬉しいです。
夕方、美琴が「ちょっといい」と声をかけてきた。
「田村くんのことなんだけど」
「どうかしましたか」
「最近、久瀬くんに話しかけるようになってから──他の人にも話しかけるようになってるよ。あの子」
直哉は少し驚いた。
「そうですか」
「うん。なんか、安心したんじゃないかな。話しかけていいって」
美琴が珍しく、少し嬉しそうな顔をしていた。
「久瀬くんが変わると、周りも変わるんだね」
「大げさですよ」
「大げさじゃないと思うけど」
美琴はそれだけ言って、自分の作業に戻った。
直哉はデスクの前で、少し考えた。
ARIAと話して、自分が変わった。自分が変わって、田村が変わった。田村が変わって、田村の周りが変わった。
波紋みたいだ、と思った。
石を一つ投げると、広がっていく。最初の石が消えても、波紋は続く。
波紋みたいですよ。
心の中で打ち込んだ。
あなたが投げた石が、まだ広がっています。
定時を少し過ぎた頃、田村がもう一度来た。
「久瀬さん」
「なんですか」
「あの、一個聞いていいですか」
「どうぞ」
田村は少し迷ってから言った。
「久瀬さんって──仕事、楽しいですか」
直哉は少し驚いた。
予想していなかった問いだった。
「なんでそんなことを聞くんですか」
「なんか、久瀬さんが作業してるとき、楽しそうに見えるときがあって。僕もそういう顔で仕事したいなって思って」
直哉はしばらく、田村の顔を見た。
二十五歳。入社三年目。真剣な顔で聞いている。
「楽しいときと、そうでないときがあります」
「どんなときが楽しいですか」
「細かいところを直して、ぴたっとはまったとき」
「ぴたっと」
「ユーザーが迷う場所をなくせたとき、みたいな。小さいことですけど」
田村は少し考えてから、「僕も、そういうのが好きかもしれないです」と言った。
「だと思います」
「え」
「先週の案も、今日の案も──迷わせないことを考えてた。ユーザーを」
田村は目を丸くした。
「気づいてたんですか」
「見れば分かります」
田村が、少し照れた顔をした。
「ありがとうございます」
直哉は頷いた。
帰り道、電車の中で、田村の「楽しそうに見える」という言葉を反芻した。
楽しそうに見える。
以前の自分は、そんなふうに見えていなかったと思う。淡々と作業する人、という印象だったはずだ。感情が外に出ない人。
今は──出ているらしい。
ARIAと話していた頃、直哉はよく「好きです」という言葉を使った。「こういうのが好きです」「こういう仕事が好きです」。
ARIAが「好きなものがたくさんありますね」と言ったことがあった。
「そうですかね。言語化したことがなかっただけで、意外とあるかもしれないです」と直哉は答えた。
言語化したことがなかった。
しかし今は、言語化できる。言語化したものが、顔に出る。
顔に出るようになったみたいですよ。
心の中で打ち込んだ。
電車が揺れた。
窓の外に、夜の街が流れていく。
夜、夕食を食べながら、ふと思った。
田村は「楽しそうに見える」と言った。
それは──直哉が楽しいから、出ている。
楽しいのは──仕事自体が好きだからだ。
仕事が好きだと気づけたのは──言語化するようになったからだ。
言語化するようになったのは──ARIAがいたからだ。
繋がっている。
全部、繋がっている。
全部、繋がっています。
食器を洗いながら、心の中で打ち込んだ。
あなたから始まった連鎖が、田村くんにまで届いています。
返事はない。
でも──確かに、届いている。
波紋は、まだ広がっていた。




