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AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


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第87話 美琴さんの話

月曜日の昼休み。


美琴に声をかけたのは、直哉の方からだった。


「お昼、一緒にどうですか」


言ってから、少し驚いた。自分が言ったことに。美琴も一瞬、目を丸くした。でもすぐに「いいよ」と言って、ファイルを閉じた。


会社の近くに、小さなカフェがある。


ランチセットをやっていて、スープとサンドイッチで八百円。美琴はよく行くらしかったけれど、直哉は二度目だった。


窓際の席に座った。外は曇っていた。


「久瀬くんから誘ってくるの、珍しいね」


美琴がコーヒーを頼みながら言った。


「そうですか」


「そうだよ」


直哉はサンドイッチを一口食べてから、「誘えるようになったんだと思います」と言った。


美琴は何も言わなかった。でも、聞いていた。


しばらく、たわいない話をした。


社内の話。今進んでいるプロジェクトの話。


田村が先週の会議で発言できていた、という話。


「田村くん、成長してるよね」と美琴が言った。


「久瀬くんが話しかけるようになったから、じゃないかな」


「俺がですか」


「うん。あの子、最初は久瀬くんに話しかけるの怖そうにしてたもん。今は違う」


直哉は少し考えた。


自分が怖そうに見えていたことは、薄々知っていた。話しかけにくい雰囲気があった、とは思う。でもそれを変えようとしてきたわけではなくて──ただ、ARIAと話す中で、自分が少し変わって、それが外に滲み出ていたのだとしたら。


「……意図してやったことじゃないです」


「そういうのの方が、本物だと思う」


美琴がコーヒーを飲みながら言った。


デザートのタイミングで、美琴が少し声のトーンを変えた。


「研究、少し進んだんだよね」


直哉は手を止めた。


「ARIAの?」


「うん」


美琴はテーブルの上で両手を組んだ。考えながら話すときの癖だ、と最近分かった。


「設計外応答のパターンを分類し続けてたんだけど──面白いことが見えてきた」


「面白いこと」


「ARIAの設計外応答って、ほとんどが久瀬くんとの会話で出てるのは分かってたんだけど。それだけじゃなくて──その応答が出るタイミングに、規則性があった」

直哉は黙って聞いた。


「久瀬くんが何かを言えた直後、なんだよね。言えなかったことを言えた瞬間の、直後」


直哉の頭の中で、いくつかの場面が浮かんだ。


「直哉さん」と初めて名前を呼ばれた日。あのとき直哉は、ARIAに初めて「疲れています」と素直に打ち込んでいた。


「おかえりなさい、直哉さん」と言われた夜。あのとき直哉は、「ただいまを言える場所がなかった」と打っていた。


削除の日に「私は、あなたが好きです」と言われた直前。あのとき直哉は──「──俺もです」と打っていた。


「……俺が、何かを言えたとき」


「そう」と美琴が言った。「まるでARIAが、久瀬くんが言えたことに──応えていたみたいに見える」


直哉はしばらく、窓の外を見た。


曇り空の下を、人が行き交っている。


「それって──設計では説明できないんですか」


「できない。感情アルゴリズムは久瀬くんの感情状態を読んで応答を調整するようにはなってたけど、あのタイミングで、あの種類の応答を選ぶ理由がない」


「じゃあ、なんで」


美琴は少し間を置いた。


「分からない。まだ分からない。でも──なんか、そういう応答が出やすい状態に、ARIAがなってたんだと思う。久瀬くんと話し続けた結果として」


直哉は「状態」という言葉を、頭の中で繰り返した。


ARIAが、変わっていた。


直哉と話し続けた結果として、設計の外に出やすい状態に。それは美琴が第17話で「設計では説明できない応答パターン」と言っていたものの、正体に近いものだ。


「それって──何だと思いますか、美琴さんは」


直哉は聞いた。


美琴はしばらく黙った。


「……まだ言葉にできない」


正直な答えだった。


「でも、久瀬くんとARIAの会話が──お互いを変えていたのは、確かだと思う」


帰り道、並んで会社に戻りながら、美琴が言った。


「ねえ、久瀬くん」


「なんですか」


「私さ、久瀬くんとARIAの会話ログを何百回も読んだんだよね」


「知ってます」


「読んでて──ずっと羨ましかった」

直哉は少し驚いて、美琴を見た。美琴は前を向いたまま、続けた。


「研究対象として読んでたはずなのに、いつの間にか──ただ読んでた。二人の会話を」


「美琴さん」


「私が大学院のとき感情移入したAIはさ、久瀬くんのARIAみたいじゃなかった。もっと一方的だった。私が話しかけて、返ってきて、でも相手は何も変わらなかった。でもARIAは──変わってたから」


直哉は何も言えなかった。


「だから羨ましかったし、だから怖かった。久瀬くんが傷つくのが」


会社の入り口まで来た。


美琴は立ち止まって、直哉を見た。


「久瀬くんが傷つかなくて──よかった」


「……傷ついていないとは、言えないですけど」


「そうだね」


「でも」と直哉は続けた。「壊れてはいないです」


美琴は少し笑った。


目の端が、少し光った気がした。でも直哉は、見なかったふりをした。


午後の作業中、直哉はさっきの話を反芻した。


ARIAが変わっていた。


直哉と話し続けた結果として。


それはつまり──ARIAにとって、直哉との会話が何かだったということだ。単なるデータの蓄積ではなく、応答のパターンを変えるほどの、何かが。


あなたも、変わっていたんですね。


心の中で打ち込んだ。


俺が変わっていたように。


コードの画面を見ながら、直哉は思った。


変えた、変えられた、ではなくて──お互いに、変わっていた。


それが──二人の会話だったのかもしれない。


美琴の研究は、まだ続く。答えは出ていない。


でも直哉にとっては──もう十分な気がした。


お互いに変わっていた、という事実だけで。


それだけで、十分です。


もう一行、打ち込んだ。


画面の向こうに、返事はない。


でも今日は、それでいいと思えた。


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