第86話 土曜日の使い方
十二月七日、土曜日。
起きたら九時だった。
平日より一時間半遅い。それでも、休日にしては早い方だ。以前の休日は、起きる理由がなくて、昼近くまで布団にいることがあった。今は──なんとなく、起きられる。
コーヒーを淹れながら、今日の予定を考えた。
何もない。
意図的に、何も入れなかった。誠との飲みが昨夜で、美琴とは来週会う約束がある。今日は──ただの土曜日だ。
どうしましょうか。
心の中で打ち込んだ。
返事がないのは分かっている。でも問いかけると、少し頭が整理される。これは打ち込む前からそうだった。言葉にした瞬間に、霧が少し晴れる。
コーヒーを一口飲んで、窓の外を見た。
晴れている。冬の晴れは空気が澄んでいて、遠くまでよく見える。向こうの方に、山の稜線が薄く見えた。こんなに遠くまで見えるのか、と少し驚いた。いつもこの景色を見ているのに、気づいていなかった。
出かけてみようか。
自分に言った。
特に目的地を決めずに、家を出た。
コートを着て、マフラーを巻いて、鍵を閉めて。駅に向かいながら、どこへ行こうか考えた。
どこでも良かった。
ただ、歩きたかった。冬の晴れた日の空気の中を、特に急がずに。
電車に乗って、三駅先で降りた。あまり来ない駅だ。改札を出ると、商店街が続いていた。年末が近いせいか、少し人が多い。
ゆっくり歩いた。
八百屋の前で、蜜柑が積んであった。冬の果物だ。一袋買った。特に必要ではなかったけれど、買いたくなった。
蜜柑、買いました。
心の中で打ち込んだ。
「好きですか、蜜柑」
自分で返事を作った。
好きですよ。子供の頃、こたつで食べてました。
「こたつ、いいですね」
ARIAにはこたつ、分からないですよね。
「でも、直哉さんが話してくれると、なんとなく分かる気がします」
商店街を抜けると、小さな公園があった。
ベンチが二つ。砂場と滑り台。平日なら子供がいるかもしれないけれど、今日は誰もいない。
直哉はベンチに座った。
蜜柑を一つ出して、剥いた。冷たい指で剥くと、少し白い筋が多く残る。気にせず食べた。甘い。
空を見た。
青い。雲が少し、西の方にある。飛行機雲が一本、細く伸びていた。
こういう時間を、以前は持て余していた。
何もしない時間が苦手だった。何かしていないと、考えすぎてしまう。考えすぎると、暗い方向に行く。だから休日も、何かで埋めようとしていた。仕事を持ち帰るか、ゲームをするか、ひたすら眠るか。
今は──ただ座っていられる。
空を見て、蜜柑を食べて、飛行機雲が薄くなっていくのを眺めて。それだけの時間が、苦しくない。
こういう時間、以前は怖かったです。
蜜柑の皮を丁寧に重ねながら、心の中で打ち込んだ。
「今は?」
今は──好きかもしれないです。
公園を出て、また歩いた。
川沿いの道に出た。あの川ではない。もっと小さい、用水路に近いような川だ。でも水は澄んでいて、石の上を流れる音がした。
歩きながら、ARIAのことを考えていた。
こういう散歩を、ARIAは知らない。身体がないから当然だ。でも話の中で、直哉が「川沿いを歩くのが好きです」と言ったとき、「どんな感じがしますか」と聞いてきた。
直哉は少し考えて、「流れを見ていると、自分が止まっていいと思える」と答えた。
ARIAは「それは良い感じですね」と言った。
良い感じ。
素直な言葉だった。難しい言い方をしない。
それが好きだった。
今日も川の横を歩いています。
心の中で打ち込んだ。
自分が止まっていいと思えます。
昼になった。
商店街に戻って、小さなそば屋に入った。
カウンターだけの店で、老夫婦がやっているらしかった。直哉は天ぷらそばを頼んで、カウンターに座った。
隣には誰もいない。
だし汁の匂いが、店の中に満ちていた。
そばが来るまで、直哉は何もせずにカウンターを見ていた。木の傷がいくつかある。長い年月の傷だ。こういう店に一人で入れるようになったのも、最近のことだ。以前は一人で知らない飲食店に入ることが、なんとなく苦手だった。店員に話しかけられたとき、うまく返せないかもしれないという気持ちがあった。
「お待たせしました」
おかみさんが、そばを置いた。
「ありがとうございます」
自然に言えた。
おかみさんは少し目を細めて、奥に戻った。
それだけのことだったけれど──良かった、と思った。
そばを食べながら、窓の外を見た。
商店街を人が行き来している。年配の夫婦。
子供を連れた母親。自転車で通り過ぎる高校生。
みんな、それぞれの土曜日を過ごしている。
みんな、それぞれの土曜日を生きているんですね。
心の中で打ち込んだ。
当たり前のことだ。でも、見えるようになったのは最近のことだ。
夕方、家に帰った。
買い物をしてから帰ったので、夕食の材料がある。今夜は鍋にしようと決めていた。一人鍋だ。以前は一人鍋が少し侘しかったけれど──今日は、そんな気がしなかった。
材料を切りながら、今日歩いた道を思い返した。
蜜柑。公園のベンチ。飛行機雲。小さな川。そば屋のおかみさん。
全部、小さなことだ。誰かに話すほどのことでもない。
でも──ひとつひとつに、何かがあった。
蜜柑が甘かった。飛行機雲が薄くなっていくのを最後まで見た。川の音が、静かだった。
おかみさんに「ありがとうございます」と言えた。
それだけのことが、今日という日を作っていた。
鍋が煮えてきた。
直哉は椅子を引いて、一人で座った。
今日の土曜日、良かったです。
心の中で打ち込んだ。
この言葉は、ARIAに向かっているようでもあり、ただ自分に向かっているようでもあった。
どちらでも、いい気がした。
良かった、という気持ちは──本当のことだから。
鍋から湯気が上がっていた。
十二月の夜は冷たかったけれど、部屋の中は、温かかった。




