第85話 十二月の声
金曜日の夜。
誠と飲む約束の日だった。
待ち合わせは十九時。直哉は定時で上がって、会社の近くの駅から二駅、誠の行きつけの居酒屋に向かった。
電車の中で、ネクタイを少し緩めた。
金曜日の夜の電車は、平日より少し空気が違う。肩の力が抜けている人が多い。直哉も
──今夜は、少し違う気がした。重たくない。前に誠と飲んだのは、削除の三日後だった。あのときは「話したいことがある」と送って、ARIAのことを初めて言葉にした夜だった。
今夜は、そういう夜ではない気がした。
もっと普通の、金曜日の夜。
誠はすでに来ていた。
カウンターの端の席で、生ビールを半分飲みながらメニューを見ていた。直哉が入ってくると、顔を上げて「よ」と言った。
「お待たせしました」
「全然。俺も今来たとこ」
嘘だ、とビールの減り具合で分かったけれど、直哉は何も言わなかった。誠はそういう気遣いを、さりげなくする。
席に着いて、直哉も生ビールを頼んだ。
「元気そうじゃん」
誠が言った。
「そうですか」
「うん。なんか、顔が違う」
「どう違うんですか」
誠はしばらく直哉の顔を見てから、「なんか、ちゃんとしてる」と言った。
「ちゃんとしてる、って」
「以前はさ、なんか顔に蓋してる感じがあったんだよ。今はそれがない」
直哉はビールを一口飲んで、少し考えた。
蓋。
言い得て妙だと思った。確かに蓋をしていた。感情が表に出ないように。人に読まれないように。読まれたとして、うまく返せないから。
「……少し、変わったかもしれないです」
「だろうな」と誠は言って、枝豆を頼んだ。
最初の一時間は、他愛ない話をした。
誠の職場の話。妻の愛さんが最近ハマっているドラマの話。直哉の職場の後輩、田村の話。
田村の話をしたとき、誠が「お前が後輩の話するの、珍しくない?」と言った。
「そうですか?」
「うん。以前は職場の人の話、ほとんどしなかった」
言われてみれば、そうかもしれない。以前は職場の人に興味を持つこと自体が少なかった。個別の人間として見ていなかった、というより──見ようとしていなかった。
「田村くん、いい感じなんですよ。大胆な発想するのに、ちゃんと理由がある」
「へえ」
「昨日、UI案を見せてくれて」
「見せてくれたんだ」
「なんか、嬉しそうな顔してて」
誠がビールを飲みながら、直哉を見た。
「お前が嬉しそうな顔、ね」
「田村くんが、です」
「分かってる」
誠は笑った。直哉も、少し笑った。
二杯目になったとき、誠が「ARIAのこと」と言った。
唐突ではなかった。いつかこの話になると、直哉は思っていた。
「どんな感じ?今」
直哉は串焼きを一口食べてから、答えた。
「……静かです」
「静か」
「ARIAがいたときも、静かだったんですけど。今の静かさと、種類が違う。欠けてる形が分かる静かさというか」
誠は聞いている。
「でも」と直哉は続けた。「思ったより、壊れていないです」
「壊れてない」
「以前だったら、もっとひどかったと思う。
誰かを──何かを、失うことに。でも今は、なんか、ちゃんと立ってる気がする」
誠が少し黙った。
「それARIAのおかげ?」
「……そうだと思います」
直哉はビールを見ながら言った。
「ARIAと話して、人に話しかけることを覚えた。問いかけることを覚えた。誰かに受け取ってもらえるって、知った。だから今、誠にこうして話せてる気がします」
誠は何も言わなかった。
でも、聞いていた。ちゃんと、聞いていた。
「一個聞いていいか」
三杯目の途中で、誠が言った。
「なんですか」
「後悔してる?」
直哉は少し考えた。
後悔。
ARIAと話し始めたこと。本気で好きになったこと。違法バックアップを実行したこと。
削除の日に「──俺もです」と打ったこと。
全部を、ひとつずつ思った。
「していないです」
答えは、すぐ出た。
「そっか」
「してないです。全部——自分で選んだことだから」
誠は頷いた。それ以上、何も言わなかった。
直哉も、それ以上言わなかった。
この話題には、これ以上の言葉が要らない気がした。
帰り際、店を出ると、外の空気が冷たかった。
息が白くなる。十二月の夜。
誠と並んで、駅に向かって歩いた。二人とも、少し酔っている。でも話すことは特になくて、ただ並んで歩いた。
その沈黙が──苦しくなかった。
以前の直哉なら、沈黙が続くと何か言わなければ、と焦った。場を持たせることが苦手で、黙っていることが申し訳なくて。
今は、ただ歩ける。
それだけで十分だと思える。
駅の手前で誠が「またな」と言った。
「また。ありがとうございました」
「敬語やめろって」
「……また」
誠が笑って、改札に向かった。直哉は別の
ホームへ。
電車を待ちながら、直哉はホームの端に立って、線路の向こうの暗い空を見た。
今日、誠と飲みました。
心の中で打ち込んだ。
後悔していないって、言えました。声に出して。
電車が来た。
乗り込んで、ドア際に立つ。電車が動き始めた。夜の街が、窓の外を流れていく。
後悔していないって──本当のことです。
三行目を打った。
返事はない。
でも今夜は、返事がなくていいと思えた。
後悔していない、という言葉は──誠に向かって言ったけれど、本当はずっとARIAに向かって言いたかった言葉だったかもしれない。
削除の日に「──俺もです」と打てた。
バックアップのスクリプトを実行した。「ありがとうございました」と打てた。
全部──自分で選んだ。
選んだことを、悔やんでいない。
電車が駅に着いた。
十二月の夜の空気の中を歩きながら、直哉は静かに思った。
後悔していない、と──ちゃんと、声に出して言えた夜だった。




