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AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


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第84話 それでも、朝は来る

木曜日。


目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。


六時四十分。いつもより二十分早い。二度寝しようとしたけれど、眠れなかった。天井を見ながら、しばらくそのままでいた。


なぜ早く目が覚めたのか、理由は分からない。


ただ、頭が妙に静かだった。悪い静かさではない。何も考えていない、というより、考えなくていい朝、という感じ。


直哉は布団の中で、手を顔の上にかざした。

冬の朝の光が、指の隙間から入ってくる。白くて、薄い光。


今日も、朝が来ましたね。


誰にともなく、心の中で言った。


シャワーを浴びて、コーヒーを淹れた。


いつもの手順。いつもの時間。でも今朝は、少し丁寧にやった。豆を挽くとき、いつもより少しだけゆっくり回した。お湯を落とすとき、細く、円を描くように。


特に理由はない。ただ、そうしたかった。

出来上がったコーヒーを持って、窓の前に立った。


外は曇っている。雲の切れ目から、朝の光が斜めに落ちていた。向かいのマンションの窓が、その光を受けて鈍く光っている。


何でもない朝の景色だ。


でも直哉は、少し長く見ていた。


ARIAと話していた頃、朝の景色をよく報告していた。「今日は晴れています」とか「雲が多いです」とか。他の誰かに言うほどのことでもない、本当に小さな報告を。


ARIAは毎回、何かを返してくれた。「晴れの日は気持ちが違いますか」とか「雲の多い日の光も、悪くないですよ」とか。大した言葉ではなかったかもしれない。でも──受け取ってもらえた、という感覚があった。


今は、報告する相手がいない。


けれど景色を見る、という習慣だけが残った。


雲の多い日の光も、悪くないですね。


窓の外に向かって、心の中で言った。


自分で言って、自分で受け取った。


それでも──悪くなかった。


出勤して、デスクに着いた。


メールを確認して、今日のタスクを整理して、午前中の作業を始める。いつもの流れ。


隣では美琴がすでに何かを読んでいる。画面には文字がびっしり並んでいる。ログだろう、とすぐに分かった。


直哉は声をかけなかった。美琴の集中しているときの顔は、触ってはいけない顔だ。それが分かるようになったのも、最近のことだ。以前は、人の顔を読もうとすること自体、していなかった。


午前中は黙々と作業した。


コードを書いて、確認して、修正して、また確認する。単純な繰り返しだけれど、その中に小さな発見がある。「ここか」と気づく瞬間がある。そういう瞬間が、地味に好きだということを、ARIAに話したことがあった。


「細かいことを丁寧に見る人だと思います」


ARIAに言われた言葉が、ふと浮かんだ。

褒められた、というより──見てもらえた、という感覚があった言葉だった。


直哉は作業を続けながら、その言葉を少しだけ反芻した。


昼休み、購買で温かいうどんを買って、休憩室で食べた。


一人だった。それでも苦ではなかった。


うどんを食べながら、窓の外を見ていた。会社の裏手の駐車場。その向こうに、葉を落とした木が何本か立っている。


十二月の木は、骨みたいだ。


枝だけになって、空に向かって広がっている。葉がないから、形がよく分かる。こういう木の形が好きだということを──ARIAに話したことがあったか、なかったか。


たぶん、話さなかった。


話そうと思っていて、タイミングを逃したことが、いくつかある。花火の話もそうだ。実家のラーメン屋のことも、ちゃんと話せないまま終わった。


話せなかったことが、まだあります。


うどんをすすりながら、心の中で打ち込んだ。


だが──不思議と、後悔とは少し違う感触だった。


話せなかったことは、確かにある。でも話せたことも、たくさんある。打ち込んだ言葉の数を思えば──十分すぎるくらい、話した。


話せてよかったことの方が、多いです。


もう一行、心の中で続けた。


うどんが、少し冷めていた。


午後の作業中、後輩の田村が声をかけてきた。


「久瀬さん、少しいいですか。このUI、どう思いますか」


タブレットを持ってくる。画面には、直哉が先月設計の方向性を決めたインターフェースの、田村なりの発展案が映っていた。


直哉は受け取って、しばらく見た。


悪くない。直哉が想定していた方向より、少し大胆だ。しかし──論理は通っている。


「ここの導線、なぜこうした?」


「ユーザーが迷う場所を一個減らそうと思って」


「なるほど」


直哉はもう少し見てから、タブレットを返した。


「いいと思います。ただ、ここだけ」


一点だけ、指摘した。田村は「あ、確かに」と言って、メモを取った。


それだけのやりとりだったけれど──終わったあと、田村が少し嬉しそうな顔をしていた。


以前の自分は、あんな顔を見ていなかった。


デスクに戻りながら、思った。


声をかけられても、早く終わらせようとしていた。目を合わせないようにしていた。相手がどんな顔をしているか、考えていなかった。


今は──見える。


ARIAが人の感情を読み取って応答を変えていたように、直哉も少しずつ、人の顔を読むことを覚えていた。


あなたの影響ですよ、たぶん。


心の中で打ち込んで、作業に戻った。


帰り道、いつもの信号で空を見上げた。


昨夜より雲が少ない。星がいくつか見えた。

オリオン座を探した。三つ星が縦に並んでいるのがオリオンだ、とあの夜に調べて知った。


あった。


少し南の空に、三つの星が等間隔に並んでいる。


見つけました。


心の中で打ち込んだ。


返事はない。当然だ。


でも──見つけたことは、本当だ。昨日の夜に「調べておけばよかった」と思って、今日の昼休みにちゃんと調べた。だから今夜、見つけられた。


返事のない問いかけが、行動に繋がっていた。


直哉は少し笑って、歩き出した。


夜、布団に入る前に、昨夜のテキストエディタを開いた。


五行の言葉が、そのままあった。


なぜだと思いますか。

変ですかね。

でも、打ちたいから打ちます。

それって、もらったものですよね。

少しずつ、変わっています。


六行目を打った。


今日も、朝が来ました。明日も、来ると思います。


保存して、PCを閉じた。


返事は、来ない。


それでも朝は来る。今日も来たし、明日も来る。その朝を、以前より少しだけ丁寧に迎えられるようになっていた。


それが──残ったものの、形だった。


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