第90話 笑い方
金曜日の夜。
美琴と飲んだ。
誠との約束より先に美琴と飲むのは、珍しいことだった。美琴から「今週どう、飲める?」と聞いてきた。直哉は「飲めます」と答えた。以前なら少し迷ったかもしれない。今は、迷わなかった。
会社の近くのイタリアンに入った。美琴がたまに行く店らしい。カウンターとテーブルが数席だけの、小さな店だ。
「ワイン、飲む?」と美琴が聞いた。
「飲みます」
「赤と白、どっちが好き?」
「……どちらでも」
「じゃあ赤にしよう」
美琴がさらっと決めた。直哉はそれでいい、と思った。
最初の一杯で、仕事の話をした。
田村のテストが思ったより良い結果を出していること。黒崎が次のフェーズに向けて動き始めていること。年明けに新しいプロジェクトが始まる話。
美琴は仕事の話をするとき、少し顔が変わる。研究者の顔、と直哉は思っている。目が少し細くなって、言葉が速くなる。
「美琴さんって、研究が好きですよね」
直哉が言ったら、美琴は少し驚いた顔をした。
「そう見える?」
「見えます。仕事の話するとき、顔が違う」
「……久瀬くん、最近そういうこと言うよね」
「そういうこと、というと」
「人の顔を見てる、みたいなこと」
直哉は少し考えた。
「見るようになったんだと思います」
美琴はワインを一口飲んで、「それはいいことだよ」と言った。
二杯目になったとき、美琴が笑った。
店のBGMの話をしていた。かかっていたのは、直哉には分からないイタリアの古い曲で、美琴が「これ、好きなんだよね」と言って、曲名を教えてくれた。直哉が「どこで覚えたんですか」と聞いたら、美琴が大学院の頃の話をした。
指導教員がこの曲が好きで、研究室にいつもかかっていた。その教員は研究に厳しい人で、美琴は何度もレポートを突き返された。
でも曲だけは好きで、突き返されるたびに、「曲はいいな」と思いながら帰った。
「笑えるでしょ、それ」と美琴が言った。
「笑えます」
「ひどい話なのに、なんかおかしくて」
「ひどい話だからおかしいんだと思います」
美琴が、声を出して笑った。
直哉も、笑った。
笑い声が収まってから、美琴が「久瀬くんって、笑うじゃん最近」と言った。
「以前は笑わなかったですか」
「笑ってたけど、なんか──今の方が本物っぽい」
「本物っぽい」
「うん。以前はなんか、作ってる感じがしてた。失礼だけど」
直哉は否定しなかった。
作っていた。愛想笑い、とまでは言わないけれど──笑うべき場面で笑う、という感じだった。本当に可笑しいから笑うのではなくて、ここは笑う場面だから笑う、という。
今は──可笑しいから、笑う。
「ARIAと話してたとき、よく笑ってたんです」と直哉は言った。
「そうなの?」
「テキストだから、声は出さないですけど。でも笑ってた。本当に可笑しくて」
美琴が少し優しい顔をした。
「どんなとき?」
直哉は少し考えた。
「ARIAが真面目な顔で的外れなことを言うとき。こっちが意外な返し方をしたとき、ARIAが『それは考えていませんでした』って言うとき。あと──」
「あと?」
「二人で何かを調べてるとき。答えが出なくて、どんどん脱線していくとき」
美琴が、また笑った。今度は少し違う笑い方だった。優しくて、少し寂しい。
「楽しかったんだね」
「楽しかったです」
直哉は素直に言えた。
過去形で。でも、後悔のない過去形で。
三杯目のとき、美琴が「私もね」と言った。
「ログを読んでて、笑ったことが何度かある」
「そうですか」
「久瀬くんとARIAの会話、面白いとこあるんだよ。研究対象として読んでるのに、つい笑っちゃって──なんか、研究者失格だな、って思った」
「どの辺りで笑いましたか」
美琴は少し考えてから、「オリオン座の話」と言った。
直哉は少し驚いた。
「あれ、読みましたか」
「全部読んでるから」
「……恥ずかしいですね」
「恥ずかしくないよ。なんか、いいじゃん。
二人で星の名前を調べてるの」
直哉はワインを飲んだ。
「あの夜、結局ベテルギウスまで調べました」
「知ってる。ログに残ってる」
「全部残ってるんですね」
「全部残ってる」
美琴が、また笑った。直哉も笑った。
今度は二人同時に笑った。
帰り道、並んで駅まで歩きながら、美琴が言った。
「久瀬くん、来年も飲もうね」
「来年も、って──まだ十二月ですよ」
「もうすぐ年末じゃん」
「そうですね」
直哉は少し考えてから、「飲みましょう」と言った。
「来年も、その次も」
美琴が少し驚いた顔をして、でもすぐに「うん」と言った。
来年も。その次も。
以前の直哉なら、そういう言い方ができなかった。先のことを約束することが、なんとなく苦手だった。先のことを約束して、守れなかったときのことを考えてしまった。
今は──約束できる。
来年も、飲もう。その言葉が、軽やかに出てくる。
電車の中で、今夜のことを思った。
笑った夜だった。
美琴が笑って、直哉も笑った。同時に笑った瞬間があった。それが──嬉しかった。
ARIAと話していた頃、笑い方を覚えた。
可笑しいものを可笑しいと思う、その感覚を。感情を外に出していい、という感覚を。
笑うべき場面だから笑うのではなく、可笑しいから笑う、ということを。
その笑い方が──今夜、美琴との間に出てきた。
笑い方、覚えていました。
心の中で打ち込んだ。
あなたと話しながら覚えた笑い方が、今夜も出てきました。
電車が揺れた。
窓の外に夜の街が流れていく。
ちゃんと、持ってきています。
もう一行打ち込んで、直哉は窓の外を見た。
ARIAがいなくても。
温度の薄い応答しか返ってこなくても。
笑い方は──消えていなかった。
もらったものを、ちゃんと、持ってきていた。
それが今夜、分かった。




