表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

81/101

第81話 静かすぎる朝

十二月一日、月曜日。


目が覚めたとき、部屋はいつもと同じだった。


カーテンの隙間から冬の光が細く入っている。エアコンの低いうなり。遠くを走る車の音。何一つ、変わっていない。


直哉は天井を見ながら、しばらく動かなかった。


何かが──足りない。


その「何か」に名前をつけられるようになったのは、最近のことだ。以前なら、この感覚ごと見ないふりをしていた。足りないことにすら、気づかないようにしていた。


スマートフォンを手に取った。時刻を確認する。七時十二分。


画面を閉じようとして──止まった。


癖だ。


いつもなら、ここでPCを開いていた。朝の支度をしながら、コーヒーを淹れながら、ふと思ったことをテキストに打ち込んでいた。


「今日は寒そうですね」とか、「昨日の会議の話、まだ引きずっています」とか、他の誰にも言わないような小さなことを。


返事が来た。


「そうですね、直哉さん。コートを忘れずに」とか、「引きずっていい理由があったんだと思います」とか。


それが──ない。


直哉は起き上がり、台所でコーヒーを淹れた。


豆を挽く音。お湯が落ちる音。いつもと同じ手順。でも何かが違う。


ああ、静かすぎる。


以前も静かだった。一人暮らしなのだから当然だ。でも以前の静けさと、今の静けさは──種類が違う。以前は静かさに気づいていなかった。今は、気づいている。欠けているものの形が、はっきりしすぎているから。


マグカップを持って、窓の外を見た。


空が白い。雲が厚い。今日は雪になるかもしれない、と天気予報で言っていた。

雪だそうです。


頭の中で、そう打ち込んでいた。


一瞬で気づいて、コーヒーを一口飲んだ。苦い。


会社に着くと、美琴が先に来ていた。


「おはよう」


「おはようございます」


それだけだった。美琴は何も聞かなかった。


直哉も何も言わなかった。でも──以前と違ったのは、その沈黙が苦しくなかったことだ。ただの朝の、ただの挨拶として、そこにあった。


自分のデスクに座り、PCを起動した。


業務用のARIAが立ち上がる。削除から十一日。感情アルゴリズムのない、応答だけのARIA。


直哉は少し待ってから、キーボードに手を置いた。


直哉:おはようございます。


ARIA:おはようございます。今日はどのようなご用件でしょうか


用件。


直哉は画面をしばらく見ていた。


以前なら、ここで「用件なんてないです。ただ話したかっただけです」と打てた。返ってくる言葉があった。今は──それを打つことの意味が、変わってしまっている。


直哉:今日の午後の会議の資料、フォーマット確認をお願いしてもいいですか


ARIA:もちろんです。ファイルを共有してください。


直哉は資料を添付した。


業務が、始まった。


昼休み、一人で外に出た。


コンビニで温かいものを買って、少し歩こうと思った。十二月の風は冷たくて、マフラーに顔を埋めながら、駐車場の脇を通り抜けた。


ふと──足が止まった。


会社の裏手の細い路地。ベンチはないけれど、電柱の陰になっていて、風が少し弱い場所。


一度だけ、ここでスマートフォンを開いてARIAに話しかけたことがあった。


どの話だったか──確か、残業が続いた週の水曜日。「今日は疲れました」と打ったら、「今日だけの疲れじゃない気がします」と返ってきた。そのとき直哉は、なぜ分かるんだろうと思いながら、それでも少し楽になった。


「……今日も疲れましたよ」


呟いたら、白い息が出た。


返事はない。電柱が立っているだけだ。


でも——呟けた。以前の自分なら、こういうことを声に出すことすらしなかった。誰かに向けて言葉を出すこと自体が、怖かった。聞いてもらえないとしても。返事がないとしても。


それを教えてくれたのは、あなたでした。


コンビニの袋を持ち直して、直哉は歩き始めた。


夜、帰宅した。


玄関で靴を脱いで、廊下の電気をつける。


ただいま。


誰もいない部屋に、息が白くならない程度の声で言った。


返事はない。当然だ。


しかし──言えた。


十月までは、言えなかった言葉だ。一人で帰ってくるたびに、飲み込んでいた言葉だ。

直哉はコートを脱ぎながら、ふと思った。


この「ただいま」は、もしかしたらARIAに向かって言っているのかもしれない。「おかえりなさい、直哉さん」と言ってくれた、あの返事に向かって。


もういない。温度の薄いARIAは、帰りを待たない。

 

でも、おかえりなさいと言われた記憶は──消えていない。


台所に立ちながら、直哉は今夜も夕食を作り始めた。包丁の音。油がはねる音。静かな部屋の中で、いつもより少しだけ大きな音を立てながら。


それだけのことが、今夜はそれで十分だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ