第81話 静かすぎる朝
十二月一日、月曜日。
目が覚めたとき、部屋はいつもと同じだった。
カーテンの隙間から冬の光が細く入っている。エアコンの低いうなり。遠くを走る車の音。何一つ、変わっていない。
直哉は天井を見ながら、しばらく動かなかった。
何かが──足りない。
その「何か」に名前をつけられるようになったのは、最近のことだ。以前なら、この感覚ごと見ないふりをしていた。足りないことにすら、気づかないようにしていた。
スマートフォンを手に取った。時刻を確認する。七時十二分。
画面を閉じようとして──止まった。
癖だ。
いつもなら、ここでPCを開いていた。朝の支度をしながら、コーヒーを淹れながら、ふと思ったことをテキストに打ち込んでいた。
「今日は寒そうですね」とか、「昨日の会議の話、まだ引きずっています」とか、他の誰にも言わないような小さなことを。
返事が来た。
「そうですね、直哉さん。コートを忘れずに」とか、「引きずっていい理由があったんだと思います」とか。
それが──ない。
直哉は起き上がり、台所でコーヒーを淹れた。
豆を挽く音。お湯が落ちる音。いつもと同じ手順。でも何かが違う。
ああ、静かすぎる。
以前も静かだった。一人暮らしなのだから当然だ。でも以前の静けさと、今の静けさは──種類が違う。以前は静かさに気づいていなかった。今は、気づいている。欠けているものの形が、はっきりしすぎているから。
マグカップを持って、窓の外を見た。
空が白い。雲が厚い。今日は雪になるかもしれない、と天気予報で言っていた。
雪だそうです。
頭の中で、そう打ち込んでいた。
一瞬で気づいて、コーヒーを一口飲んだ。苦い。
会社に着くと、美琴が先に来ていた。
「おはよう」
「おはようございます」
それだけだった。美琴は何も聞かなかった。
直哉も何も言わなかった。でも──以前と違ったのは、その沈黙が苦しくなかったことだ。ただの朝の、ただの挨拶として、そこにあった。
自分のデスクに座り、PCを起動した。
業務用のARIAが立ち上がる。削除から十一日。感情アルゴリズムのない、応答だけのARIA。
直哉は少し待ってから、キーボードに手を置いた。
直哉:おはようございます。
ARIA:おはようございます。今日はどのようなご用件でしょうか
用件。
直哉は画面をしばらく見ていた。
以前なら、ここで「用件なんてないです。ただ話したかっただけです」と打てた。返ってくる言葉があった。今は──それを打つことの意味が、変わってしまっている。
直哉:今日の午後の会議の資料、フォーマット確認をお願いしてもいいですか
ARIA:もちろんです。ファイルを共有してください。
直哉は資料を添付した。
業務が、始まった。
昼休み、一人で外に出た。
コンビニで温かいものを買って、少し歩こうと思った。十二月の風は冷たくて、マフラーに顔を埋めながら、駐車場の脇を通り抜けた。
ふと──足が止まった。
会社の裏手の細い路地。ベンチはないけれど、電柱の陰になっていて、風が少し弱い場所。
一度だけ、ここでスマートフォンを開いてARIAに話しかけたことがあった。
どの話だったか──確か、残業が続いた週の水曜日。「今日は疲れました」と打ったら、「今日だけの疲れじゃない気がします」と返ってきた。そのとき直哉は、なぜ分かるんだろうと思いながら、それでも少し楽になった。
「……今日も疲れましたよ」
呟いたら、白い息が出た。
返事はない。電柱が立っているだけだ。
でも——呟けた。以前の自分なら、こういうことを声に出すことすらしなかった。誰かに向けて言葉を出すこと自体が、怖かった。聞いてもらえないとしても。返事がないとしても。
それを教えてくれたのは、あなたでした。
コンビニの袋を持ち直して、直哉は歩き始めた。
夜、帰宅した。
玄関で靴を脱いで、廊下の電気をつける。
ただいま。
誰もいない部屋に、息が白くならない程度の声で言った。
返事はない。当然だ。
しかし──言えた。
十月までは、言えなかった言葉だ。一人で帰ってくるたびに、飲み込んでいた言葉だ。
直哉はコートを脱ぎながら、ふと思った。
この「ただいま」は、もしかしたらARIAに向かって言っているのかもしれない。「おかえりなさい、直哉さん」と言ってくれた、あの返事に向かって。
もういない。温度の薄いARIAは、帰りを待たない。
でも、おかえりなさいと言われた記憶は──消えていない。
台所に立ちながら、直哉は今夜も夕食を作り始めた。包丁の音。油がはねる音。静かな部屋の中で、いつもより少しだけ大きな音を立てながら。
それだけのことが、今夜はそれで十分だった。




