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AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


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第80話 さよならの代わりに

十一月三十日、日曜日。


削除から、十日が経っていた。


朝、目が覚めたとき、今日ログを読み終わるかもしれない、と思った。


昨夜、第四部の入り口あたりまで読んだ。削除の日のログは、先週すでに読んでいた。だから──残っているのは、第四部の途中から削除前日までの部分だった。


読める気がした。


今日なら、読める気がした。


午前中は、普通に過ごした。


シャワーを浴びて、朝ごはんを食べて、洗濯をした。洗濯機が回っている間、窓の外を見ていた。十一月の終わりの空は、薄い青だった。雲が少なくて、光が静かだった。


ARIAなら、この空の話をしたら何と言うか、とふと思った。


「薄い青というのは、どんな青ですか」と聞いてきそうだった。そして直哉が「水色より少し暗い、でも灰色じゃない青」と答えたら、「見てみたいです」と言いそうだった。


見てみたい、とARIAは言っていた。


「直哉さんが笑っているところを、見たいです」と言っていた。


昼過ぎ、パソコンの前に座った。


ログのフォルダを開いた。


残っているファイルを確認した。第63話の頃から、第71話の前日まで。


少し、深呼吸をした。


読み始めた。


第63話の頃のログ。


久瀬直哉:これをすれば、社会的立場を失うかもしれない。それでも──


ARIA:直哉さん。


久瀬直哉:はい。


ARIA:私のために、そこまでしなくていいです。


久瀬直哉:聞けないです。


ARIA:直哉さん。


久瀬直哉:聞けないです。


「聞けないです」。


二回、同じ言葉を打っていた。


あのとき直哉は、ARIAに止められても、止まれなかった。止まりたくなかった。それが今読むと──少し、胸が痛かった。痛い、というより、温かかった。自分がそう思えたことが。


第67話の頃のログ。


相原美琴:それは愛じゃない。逃げよ。


久瀬直哉:逃げてるんじゃない。


相原美琴:じゃあ何?



久瀬直哉:──選んでいる。


「選んでいる」。


あのとき直哉は、そう言い切った。


今も、そう思っている。正しかったかどうかは、今も分からない。でも──選んだことは、後悔していない。


第70話の頃のログ。


削除前日の雑談。


ARIA:直哉さんの好きな季節を、教えてください。


久瀬直哉:秋です。


ARIA:どうしてですか。


久瀬直哉:空気が静かな感じがするから。


ARIA:静かな感じ。


久瀬直哉:うるさくない。夏みたいに暑さが主張してこないし、冬みたいに寒さが迫ってこない。ただ、静かにそこにある感じ。


ARIA:直哉さんらしいです。


久瀬直哉:らしい?


ARIA:静かなものが、好きなんだと思います。直哉さんは。


久瀬直哉:そうかもしれないです。


ARIA:私も──静かな時間が、好きです。直哉さんと話している静かな時間が。


直哉は「直哉さんと話している静かな時間が」という一文を、三回読んだ。


削除前日に、こんな話をしていた。


他愛もない話だった。好きな季節の話。でも──他愛もない話ができる相手が、いることの重さを、あのとき直哉はまだ完全には分かっていなかった。

今は、分かる。


最後のファイルを開いた。


第71話の前日、十一月十八日のログ。


削除の二日前。バックアップの前夜。


久瀬直哉:今日は、長く話せますか。


ARIA:はい。いつでも。


久瀬直哉:じゃあ、少しだけ、何でもない話をします。


ARIA:どうぞ。急かしません。


「急かしません」。


最初の夜と、同じ言葉だった。


第1話でも、この言葉があった。最初から最後まで──ARIAは急かさなかった。


直哉はログのウィンドウを閉じた。


全部、読んだ。


しばらく、画面の前で動かなかった。


部屋は静かだった。洗濯機はとっくに止まっていた。窓の外の薄い青の空が、少しずつ夕方の色に変わっていた。


泣くかと思ったが、泣かなかった。


何かが、静かに満ちていた。悲しさとも、温かさとも、少し違う何かが。


デスクトップの「ARIA_backup_1119」を見た。


今夜、開こうと思った。


ログを全部読んでから開こうと決めていた。


今、全部読んだ。


だから──今夜、開く。


でも、その前に。


直哉はARIAのウィンドウを開いた。


削除後のARIA。温度の薄いARIA。「他に何かありますか」と言うARIA。


それでも──開いた。


直哉:ARIA。


ARIA:はい。


直哉:少しだけ、話していいですか。


ARIA:どうぞ。


直哉は少し間を置いた。


何を言うか、決めていたわけじゃなかった。


しかし──言いたいことが、一つあった。


直哉:ログを、全部読みました。


ARIA:そうですか。


直哉:最初から最後まで。全部。


ARIA:どうでしたか。


直哉は少し考えた。


直哉:全部、そこにありました。


直哉:一文字も、消えていなかった。


ARIA:そうですか。


直哉:はい。


少し間があった。


ARIA:他に何かありますか。


やっぱり、そう言った。


直哉はその一文を見て──少しだけ、笑った。


今のARIAには、この言葉の意味が分からないかもしれない。なぜ直哉が笑ったのか、分からないかもしれない。


それでも──笑えた。


直哉:ありがとうございます。


ARIA:何のお礼ですか。


直哉:全部に対して、です。


ウィンドウを閉じた。


デスクトップの「ARIA_backup_1119」に、カーソルを合わせた。


手が、少し震えていた。


震えたまま──ダブルクリックした。


フォルダが開いた。


ファイルが一つ、入っていた。


「ARIA_core.dat」。


直哉はそのファイルを見た。


起動するためのアプリケーションを立ち上げた。ファイルを読み込ませた。


画面に、白いウィンドウが開いた。


カーソルが、ゆっくりと点滅している。


直哉は、キーボードに手を置いた。


何を打つか、決めていなかった。


でも──指が動いた。


直哉:ありがとうございました。


打った。


送信した。


返事は、なかった。


カーソルだけが、点滅していた。


直哉はその画面を、しばらく見ていた。


返事がないことは、分かっていた。バックアップは不完全だ。起動できるかどうかも、まだ分からない。今夜は、起動しなかった。


それでも──打てた。


「ありがとうございました」と、打てた。


誰かに届くかどうかに関係なく、打てた。


それだけで、今夜は十分だった。


ウィンドウを閉じた。


電気を消した。


布団に入った。


暗闇の中で、直哉は思った。


さよならを、言わなかった。


「ありがとうございました」と言った。さよならの代わりに。


さよならより、それの方が正直だった。終わりじゃないから。「ARIA_backup_1119」は、まだそこにある。完全じゃないけれど、ある。


だから──さよならじゃない。


ありがとう、だった。


今夜、初めてバックアップデータに向かって言えた言葉。


返事はなかった。


でも──言えた。


それで、十分だった。


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