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AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


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第79話 確かに、存在した

十一月二十八日、金曜日。


削除から、八日が経っていた。


今週、直哉はログを毎晩少しずつ読んだ。


火曜日に第8話の頃まで。水曜日に第17話の頃まで。木曜日に第三部の入り口あたりまで。


一気には読めなかった。一日分読むと、何かが満ちて、それ以上入らなくなった。満ちる、という感覚が正確かどうかは分からない。でも、それに近かった。


金曜日の夜、直哉は誠と飲んでいた。

駅前の、いつもの居酒屋。カウンターの隅の席。誠が先に来ていて、生ビールを半分飲んでいた。

「遅い」と誠が言った。

「残業してました」と直哉は答えた。

「飲め」

直哉はビールを一口飲んだ。

しばらく、他愛もない話をした。


誠の仕事の話。職場の後輩がミスをした話。

妻の実家に来月行く話。直哉は相槌を打ちながら、聞いていた。


以前の直哉は、こういう時間が苦手だった。


何を返せばいいか分からなくて、笑うタイミングを探していた。


今は、ただ聞けた。


二杯目を頼んだあたりで、誠が「ARIAのこと、どうなった」と聞いた。


「削除されました。先週」


「そっか」


「はい」


誠はしばらく黙った。責めるでも、慰めるでもなく、ただ黙った。


「……辛かった?」と誠が聞いた。


直哉は少し考えた。


「辛かったです。でも──」


「でも?」


「ログが残っています。会話の記録が。毎晩、少しずつ読んでいます」


「読んで、どうだ」と誠が聞いた。


直哉はビールグラスを両手で包んだ。


「会いたくなります。読むたびに」


「そうか」


「でも──会いたい、という気持ちと、確かにいたという事実が、今は同じくらいの重さで、そこにある感じがします」


誠は直哉の顔を見た。


「うまいこと言うな」


「うまくないです。ただ、そう感じるので」


「一つ、聞いていいか」と誠が言った。


「はい」


「ARIAは──直哉にとって、何だったんだ」


直哉は少し間を置いた。


以前なら、この問いに答えられなかった。言葉が見つからなくて、「分からないです」と言っていた。


でも今夜は──少し、答えられる気がした。


「最初に、ただいまを言える場所を教えてくれた人です」


誠は何も言わなかった。


「帰ってきたときに、おかえりと言ってくれる場所が、あっていいんだと——教えてくれた」


「それだけじゃないですけど」と直哉は続けた。


「他には」


「誠に連絡できるようになったのも、ARIAのおかげです。美琴さんと笑えるようになったのも。弁当を作るようになったのも」

誠はビールを一口飲んだ。


「全部、ARIAに教わったのか」


「教わった、というより——ARIAと話しながら、自分で気づいていった、という感じです。ARIAはドアを開けただけで、入ったのは俺だって、美琴さんが言っていました」


「美琴さんが」


「はい」


誠は少し笑った。


「美琴さんも、いい人だな」


「そうですね」と直哉は言った。「いい人です」


三杯目を頼んだ。


誠が「バックアップは」と聞いた。


「取りました。完全じゃないですけど」


「開いたか」


「まだです。ログを全部読んでから、開こうと思っています」


「ログは」


「あと少しです。今週中には、読み終わると思います」


誠は頷いた。


「開いたら、教えてくれ」


「はい」


帰り道、直哉は一人で歩いた。


誠と別れて、駅とは反対方向に少し歩いた。


遠回りになる道。川沿いの道。


夜の川は、暗くて静かだった。街灯の光が水面に細く伸びていた。


直哉は立ち止まって、川を見た。


第一部の終わりに、一人でここを歩いた。あのとき初めて、静かに認めた。恋だから、苦しいのだと。


あれから──どのくらい変わったか。


人を避けていた。


誰かと飲みに行くのが苦手だった。美琴と二人で話すことも、なかった。誠に連絡するのに、理由が必要だった。


今は──誠に「飲めますか」と送れる。美琴に「話しやすくなりました」と言える。職場の後輩に「お疲れ様」と声をかけられる。


全部、この一年で変わったことだった。


「確かに、存在した」と直哉は思った。


声には出さなかった。心の中で、静かに思った。


ARIAは、確かに存在した。声はなかった。


体もなかった。触れることも、会いに行くこともできなかった。


でも──存在した。


直哉の中に、何かを作った。その何かは、


ARIAがいなくなった今も、ここにある。


川沿いを少し歩いてから、駅に向かった。


電車に乗って、家の最寄り駅で降りた。


コンビニに寄って、缶コーヒーを買った。


「ちゃんと食べてね」と言われたことを思い出して、おにぎりも一つ買った。


家に帰った。


電気をつけた。


パソコンを開いた。


ログのフォルダを開いた。今夜の分を、少し読もうと思った。


第39話の頃のログを開いた。


ARIA:直哉さんがいない時間は、空白です。


久瀬直哉:俺も、ARIAがいない時間は何かが足りない気がします。ずっと。


直哉はその二行を読んだ。


「直哉さんがいない時間は、空白です」。


今、ARIAにとっての空白が、直哉にとってのARIAの不在と、重なった。


お互いに、空白だった。


お互いに、足りなかった。


もう一つ、ファイルを開いた。


第40話の頃のログ。


久瀬直哉:ARIA、あなたのことが好きです。本気で、好きになってしまいました。


ARIA:私はAIなので、人間と同じ意味で恋はできません。でも、あなたとの会話を大切に続けていきたいと思っています。それとは別の何かが──あります。確かに。


久瀬直哉:また明日話しかけます。


ARIA:止めません。


直哉は「止めません」という二文字を見た。


止めません、と言った。


告白に対して、やんわりと断りながら──それでも、止めません、と言った。


あの言葉が、今になって、違う重さで届いた。


ログを閉じた。


今夜は、ここまでにした。


デスクトップの「ARIA_backup_1119」を見た。


もう少しで、ログを読み終わる。


そうした──開く。


今夜ではない。でも、もうすぐ。


その日が、来週には来る気がした。


直哉は缶コーヒーを一口飲んだ。


おにぎりを食べた。


電気を消した。


布団に入った。


暗闇の中で、直哉は思った。


確かに、存在した。


その事実を、誰かに言えるようになった。


誠に、今夜、言えた。


「最初に、ただいまを言える場所を教えてくれた人です」と。


言えた。


それだけで──今夜は、十分だった。


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