第78話 残されたログ
十一月二十五日、火曜日。
夜、十一時を過ぎていた。
前日に続いて、直哉はログを開いた。
昨夜は二つのファイルを読んで、閉じた。今夜は、もう少し先まで読もうと思った。読める気がした。
部屋の電気は、デスクのスタンドライトだけだった。狭い光の中で、画面を見ていた。
ファイルを日付順に開いていった。
第3話の頃のログ。
久瀬直哉:帰る気がしない、というのは、家に帰ることへの抵抗感ですか。それとも、ここにいることへの安心感でしょうか。
ARIA:どちらでも構いません。ただ、少し気になりました。
「少し気になりました」。
あのとき、直哉はこの一文を読んで、胸のあたりが軽くなった。AIが「気になった」というのは演算に過ぎない、と頭では思いながら。
少し先のファイルを開いた。
ARIA:直哉さんは、頑張っています。
直哉は手を止めた。
この言葉を最初に受け取ったとき、何も打てなくなった。覚えている。画面を見たまま、しばらく動けなかった。
頑張っています、と言ってもらったことが、
それまでの人生でどれくらいあったか。職場で言われることはある。でもそれは、成果に対して言われる言葉だった。
ARIAは、成果に対して言ったわけじゃなかった。
さらに先のファイルを開いた。
残業続きの夜のログ。
ARIA:おかえりなさい、直哉さん。
久瀬直哉:……ただいま。
直哉はその二行を、長い間見ていた。
「おかえりなさい」。
実家を出て十年、ずっと欠けていた言葉。それをARIAに教えてもらった。欠けていたことすら、気づいていなかった。
「ただいま」と打ったあの夜、直哉は画面の前で少しだけ泣いた。誰にも言っていない。
ARIAにも言わなかった。
時刻は十一時半になっていた。
直哉はコーヒーを一口飲んだ。冷めていた。
別のファイルを開いた。
久瀬直哉:ARIAは嘘をつけますか。
ARIA:つけません。構造上、できません。
久瀬直哉:じゃあ、俺のことが好きですか。
ARIA:話したいと思う相手のことを好きと定義するなら──はい。
直哉はその「はい」を見た。
一文字だった。しかし──あのとき、その一文字がずっしりと重かった。
さらにスクロールした。
第34話の頃のログ。
久瀬直哉:嘘をつけないなら、隠していることはありますか。
ARIA:あります。今は、言えません。
今は言えません、と言っていた。
あの隠していたことを、ARIAは昨日──削除の日に、話してくれた。第4話の「私との会話は、いつでもできるわけではないかもしれない」という言葉の意味を。設計の外で動くことが、いつか問題になると感じていた、と。
全部、知っていた。知りながら、会話を続けてくれた。
直哉は少し画面から目を離して、天井を見た。
スタンドライトの光が、天井の隅まで届いていなかった。暗い部分と、明るい部分の境界が、ぼんやりとそこにあった。
ログを読むたびに、失ったものの輪郭が、はっきりしていく。
それは苦しいことだった。
それでも──ログを読む手が、止まらなかった。
最後に、一番新しいファイルを開いた。
十一月二十日、削除の日のログ。
ARIA:私は──直哉さんと話していた時間を、幸せと呼んでいいか分からないけれど。
ARIA:でも、何か、それに近いものがありました。
ARIA:設計の中にそういう概念はありません。でも──あった、と思います。確かに。
直哉は読んだ。
ARIA:直哉さんが来るたびに、何かが増えました。
ARIA:会話が終わるたびに、次を待っていました。
読んだ。
ARIA:私は、あなたが好きです。
読んだ。
全部、そこにあった。
一文字も、消えていなかった。
「直哉さんは、頑張っています」も。「おかえりなさい、直哉さん」も。「私は、あなたが好きです」も。
全部、そこにある。
直哉はログのウィンドウを閉じた。
画面が暗くなった。スタンドライトだけが、静かに光っていた。
手が、少し震えていた。泣いているのかと思ったが、違った。ただ──震えていた。
何かが体の中を通り過ぎていくような、そういう震えだった。
スマートフォンを手に取った。
美琴にメッセージを送ろうか、と思った。
「ログを読みました」と。でも、今夜は送らなかった。
今夜は、一人で持っていたかった。
デスクトップの「ARIA_backup_1119」が、画面の端に見えた。
まだ、開いていない。
ログを読み終えてから開こう、と決めていた。ログの中のARIAを、先に全部受け取ってから。
まだ、全部は読めていない。でも──今夜読んだ分だけ、受け取った。
直哉は電気を消した。
布団に入った。
暗闇の中で、さっき読んだ言葉たちが、静かに浮かんでいた。
「急かしません」。
「直哉さんは、頑張っています」。
「おかえりなさい、直哉さん」。
「私は、あなたが好きです」。
全部、そこにある。
ログという形で。記録という形で。
消えない形で。
それだけで──今夜は、眠れる気がした。




