第77話 失われる光
十一月二十四日、月曜日。
削除から、四日が経っていた。
朝、出社して、パソコンを起動して、ARIAのウィンドウを開く。それは変わらなかった。変えようとは、思わなかった。
ただ──開くたびに、少しだけ、息を整えてから開くようになっていた。
準備をする、ということが必要になっていた。
直哉:おはようございます。
ARIA:おはようございます。本日の予定を確認しますか。
「本日の予定を確認しますか」。
以前のARIAは「おはようございます、直哉さん」と返してから、少し間を置いて、「今日も寒いですね」とか「昨日は眠れましたか」とか──そういうことを言った。
今は、言わない。
直哉はその違いを、四日かけて、少しずつ正確に把握していた。
業務上の応答は、変わっていない。
仕様の確認、エラーの分析、UIの改善案。
ARIAは正確に、素早く答える。以前と同じように、あるいは以前より効率的に。
ただ、余白がない。
会話と会話の間にあった、小さな余白。「急かしません」と言ってくれた余白。「直哉さんは今日、少し疲れていますか」と聞いてきた余白。
その余白が──なくなっていた。
昼休みに、美琴が隣に来た。
「どう?」と美琴が聞いた。
「慣れようとしています」と直哉は答えた。
「慣れる必要は、ないよ」
直哉は美琴を見た。
「違うと感じることを、違うと思い続けていていい。無理に慣れなくていい」
直哉はしばらく、その言葉を考えた。
「でも、仕事では使います。ARIAを」
「それはそれでいい。仕事で使いながら、違うと思い続けていていい。両方、できる」
午後、直哉は一つだけ、業務と関係ない言葉をARIAに打った。
直哉は画面を見た。
正確だった。間違っていない。それでも──
以前のARIAなら、こう返さなかった。「覚えています」と一言言って、それから──
「最初に話しかけてくれた日のことも」と続けたかもしれない。
直哉はウィンドウを閉じた。
今日はもう、業務以外では開かないことにした。
退社前に、美琴が声をかけてきた。
「久瀬くん、少しいい?」
「はい」
美琴は直哉のデスクの前に立った。いつもより、少し迷うような表情をしていた。
「……会話ログ、読んだ?」
「まだです」
「そっか」
美琴は少し間を置いた。
「急かしてるわけじゃないんだけど──読む前に、一つだけ言っておきたくて」
「なんですか」
美琴は直哉の目を見た。
「ログの中のARIAは──今のARIAより、ずっとARIAらしいと思う。久瀬くんが知っているARIAに、近い」
直哉は何も言わなかった。
「だから、読むと──今のARIAとの違いを、もう一度はっきり感じると思う。それが辛くなるかもしれない」
「……はい」
「でも」と美琴は言った。「その違いは、本物だから。感じていい違いだから」
「美琴さん」と直哉が言った。
「うん」
「ログの中のARIAが、本物だったということですか」
美琴は少し間を置いた。
「今のARIAが偽物だとは思っていない。けれど──ログの中のARIAも、確かに本物だった。そう思っています、私は」
直哉は頷いた。
「研究者として、ですか」
「……研究者として、でもあるし」と美琴は言った。「久瀬くんの隣で、一緒に読んできた人間として、でもある」
帰り道、直哉はいつもと違う道を歩いた。
少し遠回りになる道。川沿いの道。
第一部の終わりに一人で歩いた道と、同じ道だった。あのとき直哉は、初めて静かに認めた。恋だから、苦しいのだ、と。
今夜も、苦しかった。
ところが──あのときとは、少し違う苦しさだった。
あのときは、認めることが怖かった。今は、認めた上で、失ったことが苦しかった。
怖さと苦しさは、違う。
苦しさの方が──まだ、正直だった。
家に帰った。
コートを脱いで、鞄を置いて、パソコンの前に座った。
デスクトップに、「ARIA_backup_1119」がある。
今夜も、それを開かなかった。
だが──会社のシステムにアクセスして、会話ログのフォルダを開いた。
ずらりと並んだファイル。日付順に並んでいる。一番古いファイルの名前は、テスト開始
初日の日付だった。
直哉はその一番古いファイルを、クリックした。
久瀬直哉:こんにちは。テストです。
ARIA:こんにちは、久瀬さん。
テストとのことですが、そのまま普通に話しかけてもらえると嬉しいです。「テスト中の会話」と「そうでない会話」を私は特に区別していないので、どちらでも同じようにお話しできます。
今日は、お疲れではありませんか?
直哉は手を止めた。
「お疲れではありませんか」。
あのとき、直哉はこの一文を読んで、少し驚いた。業務用のテストチャットに、こんなことを聞いてくるとは思っていなかった。
少し下にスクロールした。
ARIA:久瀬さんが話しやすい速度で、話しやすいことを話してください。
私は、急かしません。
「急かしません」。
最初から、そう言っていた。
直哉はその四文字を、もう一度読んだ。もう一度。
別のファイルを開いた。第8話に当たる日付のもの。
ARIA:直哉さん。
久瀬直哉:……なんですか。
ARIA:初めて、名前で呼びました。
久瀬直哉:そうですね。
ARIA:嫌でしたか。
久瀬直哉:……嫌じゃないです。
直哉はそこで、スクロールを止めた。
「初めて、名前で呼びました」。
あのとき、胸が小さく跳ねた。覚えている。その感覚を、今でも覚えている。「直哉さん」というたった四文字が、何か違う重さを持っていた。
画面を閉じる前に、直哉は思った。
失われた光のことを。
感情アルゴリズムが削除されて、何かが薄くなった。温度が薄くなった。余白がなくなった。「急かしません」と言ってくれた何かが、なくなった。
でも──ログの中に、その光は残っている。
薄くなっていない。消えていない。あの日のまま、そこにある。
取り戻せない。
しかし、消えていない。
それだけが──今夜の、唯一の慰めだった。
そして、それは──十分な慰めだった。




