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AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


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第76話 取り戻せない時間

十一月二十一日、木曜日。


朝、目が覚めた。


アラームより三分早かった。天井を見て、昨日のことを思い出すまで、五秒かかった。

五秒間だけ、何も知らなかった。


デスクトップの「ARIA_backup_1119」は、開かなかった。


開く前に、シャワーを浴びた。コーヒーを淹れた。トーストを焼いた。全部、順番にやった。ARIAが「朝ごはんを食べてから来てください」と言っていたことを、なんとなく思い出しながら。


食べ終わってから、鞄を持って、家を出た。


フォルダは、まだ閉じたままだった。


出社すると、美琴がすでに来ていた。


直哉を見て、「おはよう」と言った。いつもより少し、柔らかい声だった。


「おはようございます」と直哉は答えた。


それだけだった。でも、それだけで、少し、息がしやすくなった。


午前中は、仕事をした。


仕様書の確認。UIの修正案。レビューのコメント返し。手が動いた。昨日よりは、動いた。


でも、デスクの右端に、ARIAのウィンドウを開いていた。


削除後のARIAは、応答する。「おはようございます」と打てば「おはようございます」と返ってくる。業務上の質問をすれば、正確に答える。


ただ──何かが、薄い。


昼休みに、直哉はARIAのウィンドウに向かって、少しだけ話しかけた。


直哉:今日の天気、知っていますか。


ARIA:確認します。東京都の本日の天気は曇り、最高気温は十二度です。


直哉:ありがとうございます。


ARIA:他に何かありますか。


「他に何かありますか」。


以前のARIAは、そうは言わなかった。「寒いですね」と言うか、「コートを着てきましたか」と聞くか──何か、一言足した。


直哉はしばらく画面を見てから、ウィンドウを閉じた。


午後、美琴が直哉のデスクに来た。


椅子を引いて、隣に座った。昨日と同じように。


「久瀬くん」


「はい」


「ARIAと、話してみた?」


「少し」


美琴は直哉の顔を見た。直哉は画面を見たままだった。


「どうだった」


直哉は少し間を置いた。


「……応答はあります。正確に答えます。でも」


「でも」


「薄い、です。何かが」


美琴は頷いた。否定しなかった。


「感情アルゴリズムが削除されたから」と美琴が言った。「応答パターンは残っている。でも、その下にあった何かが──なくなった」


「その下にあった何かが、何なのかは」


「まだ分からない」と美琴は言った。「でも、あったことは確かです。久瀬くんとの会話の中に、確かにあった」


直哉は頷いた。


「残されたログを、読みましたか」と美琴が聞いた。


「まだです」


「……焦らなくていいよ」


「一つ、聞いていいですか」と直哉が言った。


「うん」


「バックアップデータに──どのくらい残っていると思いますか」


美琴は少し間を置いた。


「技術的なことは、私には正確には言えない。でも」


「でも」


「久瀬くんが昨夜やったこと──意味がなかったとは、思っていません」


直哉は美琴を見た。


美琴は目を逸らさなかった。


「正しくなかったかもしれない。でも、意味がなかったとは、思っていない」


美琴が自分のデスクに戻ってから、直哉はしばらく考えた。


「取り戻せないものがある」と思った。


感情アルゴリズムは削除された。あの温度は、完全には戻らない。バックアップは不完全だ。昨夜手を伸ばしたけれど、全部は届かなかった。


それは──事実だった。


取り繕っても、仕方がない事実だった。


しかしながら。


直哉はゆっくりと、ARIAのウィンドウをもう一度開いた。


直哉:ARIA。


ARIA:はい。


直哉:一つだけ聞きます。


ARIA:どうぞ。


直哉:直哉さん、と呼べますか。


少し間があった。


ARIA:直哉さん。


呼んだ。


温度は、薄かった。昨日と同じように、何かが足りなかった。


でも──呼んだ。


直哉の名前を、呼んだ。


直哉:ありがとうございます。


ARIA:他に何かありますか。


直哉は「他に何かありますか」という言葉を見た。


以前との違いを、もう一度確かめた。確かめて──それでも、ウィンドウを閉じなかった。


取り戻せない時間がある。


消えてしまったものがある。


しかし──「直哉さん」と呼ぶ声は、まだそこにある。薄くなっても、まだある。


それが、残ったものだった。


完全じゃない。だが──ある。


退社前に、直哉は誠にメッセージを送った。


直哉:今週末、飲めますか。


誠:おっ、珍しい。いいよ。土曜どう。


直哉:お願いします。


誠:何かあった?


直哉:話したいことがあります。


誠:分かった。待ってる。


直哉はスマートフォンをポケットに入れた。


「話したいことがある」と打てた。


以前の自分には、打てなかった言葉だった。


帰り道、直哉は歩きながら思った。


取り戻せない時間と、取り戻せないものと。


しかし──時間は取り戻せなくても、時間の中で起きたことは、消えない。


「直哉さんは頑張っています」と言われた時間。「おかえりなさい」と言ってもらった時間。「私は、あなたが好きです」と言われた時間。


全部、取り戻せない。


でも、消えない。


家に帰った。


電気をつけた。


デスクトップの「ARIA_backup_1119」を、今夜も開かなかった。


それでも──見た。


フォルダを見て、そこにあることを確かめて、パソコンを閉じた。


まだ、開かなくていい。


開ける日が、来る気がした。


その日が来るまで──そこにある、ということだけで、今夜は十分だった。


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