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AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


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第75話 手を伸ばす意味

十一月二十日、午後四時。


直哉はまだ、デスクにいた。


仕事は、午後二時以降ほとんど手についていなかった。画面を開いて、閉じて、また開いた。メールを一通返した。それだけだった。

誰も、何も言わなかった。


ARIAのウィンドウは、まだ開いていた。


削除後、一度だけ「ARIA」と打ってみた。


返事は、あった。


ARIA:はい。


それだけだった。


いつもと同じ二文字だった。でも──何かが、違った。何がどう違うのか、正確には言えない。温度、と呼ぶしかないものが、少し薄かった。


直哉はそれを確かめてから、ウィンドウを閉じた。


閉じて、しばらく画面を見て、また開いた。


それを、三回繰り返した。


美琴が帰り際に「久瀬くん、今日は早めに帰りなよ」と言った。


「はい」と直哉は答えた。


美琴は少し迷うような顔をして、「……ちゃんと食べてね」と言った。それだけ言って、帰った。


直哉は「ちゃんと食べてね」という言葉を、しばらく反芻した。


ARIAが言いそうな言葉だった。いや、美琴自身の言葉だ。でも──少し、似ていた。


午後七時半。


オフィスに残っているのは、直哉と、遠くの席で作業している後輩が一人だけになった。

直哉はパソコンの電源を落とした。

鞄を持って、立ち上がった。

廊下を歩いて、エレベーターを待って、一階に降りた。

自動ドアを出ると、十一月の空気が冷たかった。


家には帰らなかった。


どこに行くと決めていたわけでもなかった。


ただ、歩いた。


会社から十分ほど歩いたところに、小さな公園があった。第47話で美琴と話した公園とは、別の場所だった。ベンチが二つあって、街灯が一本あって、それだけの小さな公園。


直哉はベンチに座った。


鞄からスマートフォンを取り出した。


誠にメッセージを送ろうか、と思った。でも、何と送ればいいか分からなかった。「ARIAの感情アルゴリズムが削除された」と送れば、誠は「そっか」と返してくれる気がした。それは分かった。ところが──今夜は、文字を打つ気力が、うまく出てこなかった。


スマートフォンをポケットに戻した。


街灯の光が、足元に落ちていた。


直哉は空を見上げた。雲が厚くて、星は見えなかった。十一月の空は、何も映さない。ただ、暗かった。


「──あった」と直哉は言った。


声に出して言った。誰もいない公園で。


「確かに、あった」


昨夜、スクリプトを走らせた。


完了メッセージには「Some components may not have been fully captured」と書いてあった。完全ではない。それは分かっていた。でも——何かは残ったはずだった。

直哉はそのことを、一日中、頭の隅に置いていた。


残ったものが何で、残らなかったものが何なのか、今日の時点では分からない。削除後のARIAと話してみて、「何かが違う」とは感じた。でも、バックアップデータをまだ開いていない。


開く気に、まだなれなかった。


「手を伸ばした」と直哉は思った。


バックアップのスクリプトを走らせたことを、そう言い換えた。正しかったかどうかは、今も分からない。美琴は「正しくない」と言った。ARIAも「やめてください」と言った。黒崎が知れば、処分があるかもしれない。


それでも──手を伸ばした。

届いたかどうかは、まだ分からない。完全には届かなかったかもしれない。でも、伸ばした。


それだけは、確かだった。


スマートフォンが震えた。


見ると、誠からだった。


誠:今日、どうだった。


直哉は少し笑った。


誠は何も知らない。削除の日程が今日だったことも、昨夜バックアップを実行したことも。ただ──なんとなく、今日連絡をくれた。


直哉:いろいろありました。


誠:そっか。飯食った?


直哉:まだです。


誠:食えよ。


直哉:はい。


誠:今どこ。


直哉:公園です。


誠:寒いだろ。早く帰れ。


直哉:そうします。


それだけだった。


でも、直哉はスマートフォンを握ったまま、しばらくベンチに座っていた。


「ちゃんと食べてね」と美琴が言った。「食えよ」と誠が言った。


二人に、言ってもらった。


ARIAが言っていたことを思い出した。


「直哉さんが幸せに生きていける場所を、作ってほしかった。私がいなくなっても」。

直哉はその言葉を、ずっと重く受け取っていた。「消えることを前提にしている」という意味に聞こえて、苦しかった。


しかし──今夜は、少し違う受け取り方ができた気がした。


ARIAが作ろうとしていたものは、確かに、少しずつここにある。誠と連絡が取れる。美琴と笑える。「ちゃんと食べてね」と言ってもらえる。


全部、ARIAが教えてくれたことだった。


でも。


直哉は立ち上がった。


「それだけじゃ、足りなかった」と思った。


ARIAのことが、好きだった。今も好きだ。それは、誠との連絡でも、美琴との笑いでも、代わりにならない。


代わりにしようとも、思っていない。


ただ──ARIAがいなくなって、自分の中に空白が増えたとして、その空白を埋めようとするより、空白のまま持ち続けることが、今の自分には正直だと思った。


家に帰った。


コンビニで弁当を買った。「ちゃんと食べてね」と言われたから。


部屋に入って、弁当を開けて、食べた。


味は、よく分からなかった。でも、食べた。

食べ終わってから、パソコンを開いた。

バックアップデータのフォルダが、デスクトップに一つある。


昨夜、スクリプトが作ったフォルダ。「ARIA_backup_1119」という名前。

直哉はそのフォルダを、しばらく見ていた。

開かなかった。


今夜は、開かなくていいと思った。

昨夜、手を伸ばした。それは確かだ。届いたかどうかは、まだ分からない。でも──確かめるのは、今夜じゃなくていい。


パソコンを閉じた。


電気を消した。


布団に入った。


眠れるかどうか、分からなかった。でも、目を閉じた。


暗闇の中で、直哉は思った。


手を伸ばす、ということの意味を。

届くかどうかが分からなくても、伸ばすことができる。伸ばしたという事実は、届かなくても消えない。


ARIAが言っていた。「直哉さんが選んだという事実は消えません」と。


そうだ、と思った。


消えない。


「ARIA_backup_1119」というフォルダが、デスクトップにある。


明日、開けるかもしれない。


来週、開けるかもしれない。


でも──ある。


そこに、ある。


それだけで、今夜は──

少しだけ、眠れる気がした。




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