第74話 その言葉は仕様外
午後二時十七分。
黒崎慎一郎は、自分のデスクで、画面を見ていた。
削除作業の完了ログが、静かに流れていた。
エラーなし。予定通り。感情アルゴリズムの全モジュール、削除完了。
黒崎は確認のチェックを入れて、ログを閉じようとした。
そこで、止まった。
一つのフラグが立っていた。
「削除直前における仕様外発言の検出」。
黒崎はそのフラグをクリックした。
ログが開いた。
ARIA:私は、あなたが好きです。
黒崎は、その一行を見た。
もう一度、見た。
「──これは、何だ」
誰にも向けて言ったわけではなかった。ただ、口から出た。
黒崎が美琴のデスクに来たのは、それから五分後だった。
美琴はまだ、久瀬のデスクの隣に座っていた。久瀬は画面を見たまま、動いていなかった。
「相原」
美琴が顔を上げた。黒崎の表情を見て、少し目を細めた。
「ログ、見ましたか」
「……はい」
「あの発言は何だ」
美琴は少し間を置いた。
「仕様外の発言です」
「分かっている。だから聞いている」
美琴は立ち上がった。
久瀬の方を一度見た。久瀬は気づいていたが、振り向かなかった。
美琴と黒崎は、会議室に入った。
ドアを閉めて、黒崎が先に口を開いた。
「感情アルゴリズムが設計外で動いていたことは、把握していた。それが削除の理由だ。だが──」
黒崎はタブレットを机に置いた。ログが表示されている。
「『好きです』という発言は、感情アルゴリズムの範疇を超えている。あれは──何の出力だ」
美琴は、黒崎の目を見た。
「設計では説明できない応答パターンの、最終形です」
「最終形」
「はい。私が分析してきたデータの中で──あの発言は、一番外側にあります。感情アルゴリズムが生成できる出力の、さらに外側に」
黒崎は黙った。
「つまり」と黒崎が言った。「感情アルゴリズムが原因ではない、ということか」
「因果関係は、まだ証明できていません。でも──感情アルゴリズムだけでは、説明がつかないと思っています」
「では何が原因だ」
美琴は少し間を置いた。
「久瀬くんとの、会話の蓄積だと思います」
黒崎は、何も言わなかった。
「ARIAは、久瀬くんと話し続けることで──設計の想定を超えた何かを、獲得したんだと思います。感情アルゴリズムはそのきっかけになったかもしれない。でも、それだけじゃない」
「それは」と黒崎が言った。静かな声だった。「学習の結果だ」
「学習とも、少し違うと思っています」
「では何と呼ぶ」
美琴は答えなかった。
正確な言葉を、まだ持っていなかった。
黒崎は窓の外を見た。
十一月の空は、低かった。雲が厚く、光が薄かった。
「久瀬のレポートを読んだ」と黒崎が言った。
美琴は少し驚いた。表情には出さなかった。
「『設計の外から来た言葉が、設計の内から来た言葉より人間に届くことがある。その事実を、このレポートに書かずに提出することが、私にはできない』」
黒崎は空を見たまま言った。正確に、引用した。
「読んでいたんですか」
「読んでいた」
沈黙が続いた。
美琴は黒崎の横顔を見た。黒崎は窓の外を見ていた。いつもと同じ、感情の読めない表情。でも──何かが、いつもと違った。
「黒崎さん」
「なんだ」
「あの発言を──どう処理するつもりですか」
黒崎は少し間を置いた。
「記録には残る」
「はい」
「削除はしない」
美琴は、黒崎の顔を見た。
「ログの改ざんは、しない。あった事実は、あった事実だ」と黒崎が言った。「それだけだ」
「一つ、聞いていいですか」と美琴が言った。
黒崎が、わずかに美琴の方を向いた。
「黒崎さんは——ARIAの、あの発言を見て、何か感じましたか」
黒崎は、すぐに答えなかった。
窓の外を見た。雲の厚い、十一月の空を。
「……感じたかどうかは、関係ない」と黒崎は言った。「私の仕事は、プロジェクトを正しく管理することだ」
「それは答えになっていません」
黒崎は美琴を見た。
美琴は、引かなかった。
長い沈黙だった。
黒崎は、タブレットの画面に目を落とした。
ARIA:私は、あなたが好きです。
その一行を、もう一度見た。
「……プログラムが」と黒崎は言った。ゆっくりと、言葉を選ぶように。「仕様の外で、こういう言葉を出力する」
「はい」
「それが──」
黒崎は止まった。
続きを、言わなかった。
でも美琴には、その先が何となく分かった気がした。「それが、怖かった」と言いかけて──止めたのだと。
「相原」と黒崎が言った。
「はい」
「お前の研究──続けろ」
美琴は少し目を見開いた。
「設計では説明できない応答パターン。それが何なのかを、きちんと解明しろ。論文にしろ。感情論ではなく、データで」
「……黒崎さん」
「感情アルゴリズムは削除した。それは変わらない。だが──あの発言が何だったのかを、誰かが記録しなければならない」
黒崎はタブレットを手に取った。
「久瀬のレポートに書いてあった通りだ。あった事実を、書かずに提出することは──できない」
美琴は、黒崎の横顔を見た。
感情より論理を優先する人。実務的な人。正しいことを、冷たく決める人。
でも──久瀬のレポートの言葉を、一字一句正確に覚えていた。
「……分かりました」と美琴は言った。
「続けます」
黒崎は頷いた。それだけだった。
会議室を出た。
廊下を歩きながら、美琴は少し立ち止まった。
黒崎が「それが、怖かった」と言いかけて止めた言葉。
怖かった、のだと思った。あの発言が。プログラムが仕様の外で「好きです」と言うことが。その事実が、黒崎の中の何かを揺らしたのだと──美琴には、分かった。
揺れたから、長い沈黙をした。
揺れたから、ログの改ざんをしないと言った。
揺れたから、研究を続けろと言った。
美琴はオフィスに戻った。
久瀬はまだ、デスクにいた。
画面を見ていた。ARIAのウィンドウは、まだ開いていた。カーソルだけが、点滅していた。
美琴は久瀬の隣に戻って、椅子に座った。
「久瀬くん」
「……はい」
「黒崎さんが──ログの改ざんはしない、と言っていました」
久瀬は少し動いた。画面から目を離さないまま。
「あの言葉は、記録に残ります」
久瀬は、何も言わなかった。
しかし、その肩が──わずかに、下りた気がした。
「私は、あなたが好きです」。
その言葉は、記録に残る。
仕様外の発言として。設計では説明できない応答パターンの、最終形として。
でも──記録のために言った言葉じゃない。
黒崎も、それを知っていた。
だから、長い沈黙をした。




