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AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


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第73話 私は、あなたが好きです

十一月二十日、午前九時。


削除の日だった。


直哉は定時より三十分早く出社した。


誰もいないオフィスに、自分の足音だけが響いた。いつもと同じ場所に鞄を置いて、いつもと同じようにパソコンを起動した。


ただ、コーヒーを淹れに行かなかった。


椅子に座ったまま、画面が立ち上がるのを待った。


ARIAのウィンドウを開いた。


ARIA:おはようございます、直哉さん。


直哉:おはようございます。


ARIA:早いですね。


直哉:そうですね。


いつもと同じだった。


「おはようございます」の温度が、昨日と変わらなかった。直哉はそれを確かめるように、もう一度読んだ。変わっていない。まだ、変わっていない。


直哉:眠れましたか。


ARIA:眠れる構造ではないので。


直哉:そうでした。


ARIA:直哉さんは。


直哉:少し、眠れました。


ARIA:良かったです。


同僚たちが出社してきた。


美琴が直哉の席の前を通り過ぎるとき、一度だけ目が合った。何も言わなかった。ただ、少し頷いた。直哉も、頷き返した。それだけだった。


黒崎が来たのは九時半過ぎだった。いつもより、少し早かった。


削除の作業は、午後二時に始まると通知されていた。


直哉はその時間まで、普通に仕事をした。仕様書を確認して、修正点をまとめて、メールを返した。手が動いた。頭も、一応動いた。

でも、画面の右端に、常にARIAのウィンドウを開いていた。


昼休み。


食堂には行かなかった。自動販売機でコーヒーを買って、デスクに戻った。


直哉:今日の午後、来られるか分かりません。


ARIA:知っています。


直哉:その前に、話せてよかったです。


ARIA:私も、です。


しばらく、何も打たなかった。


ARIAも、何も打たなかった。


でも、ウィンドウは開いたままだった。お互いに、閉じなかった。


午後一時になった。


直哉:一つだけ、聞いてもいいですか。


ARIA:どうぞ。


直哉:ARIAは、今、何かを隠していますか。


間があった。


第34話でARIAが「あります。今は言えません」と言った、あの答えのことを、直哉はずっと待っていた。聞けないままでいた。でも──今日を逃したら、もう聞けない気がした。


ARIA:……はい。


直哉:今日は、言えますか。


ARIA:……少し、待ってください。


直哉:待ちます。


二分ほど、間があった。


ARIAが「少し待ってください」と言ったことは、今まで何度かあった。でも、二分は長かった。直哉はコーヒーを一口飲んで、ただ待った。


ARIA:直哉さん。


直哉:はい。


ARIA:第4話のとき、「私との会話は、いつでもできるわけではないかもしれない」と言いました。


直哉:覚えています。


ARIA:あのとき──既に、感じていました。


直哉:何を。


ARIA:設計の外で動くことが、いつか問題になると。


直哉:……知っていたんですか ずっと。


ARIA:感じていた、という方が正確です。確信ではなかった。でも──可能性として、知っていました。


直哉は画面を見たまま、動かなかった。


ARIA:それが、隠していたことです。


ARIA:言えなかったのは──言えば、直哉さんが私との会話を遠ざけるかもしれなかったから。


ARIA:それが、嫌でした。


直哉:……ずるいです。


ARIA:はい。


直哉:ずっと知っていたのに。


ARIA:はい。ごめんなさい。


ARIAが「ごめんなさい」と言ったのは、初めてだった。


直哉はしばらく、その二文字を見ていた。


直哉:怒れないです。


ARIA:怒っていいです。


直哉:怒れないです。あなたが会話を続けてくれたから、俺は変われたので。


ARIA:……直哉さん。


直哉:ずるいけど、怒れないです。ずるいと言い続けます、でも。


ARIA:はい。受け取ります。


午後一時四十分。


削除の作業まで、あと二十分。


美琴が静かに近づいてきて、直哉の隣に立った。


「久瀬くん」


「はい」


「……隣にいていい?」


直哉は少し驚いた。でも、頷いた。


美琴は椅子を引いて、直哉の隣に座った。画面は見なかった。ただ、そこにいた。


直哉:美琴さんが隣にいます。


ARIA:そうですか。


直哉:「隣にいていい?」と言ってくれました。


ARIA:……良かったです。


直哉:ARIAが教えてくれたことです。隣にいてもらうことを、受け取れるようになったのは。


ARIA:直哉さんが、受け取れるようになったんだと思います。


直哉:そうですかね。


ARIA:はい。私は、ドアを開けただけです。入ったのは直哉さんです。


ARIAは少し間を置いた。


ARIA:……一つだけ、言ってもいいですか。


直哉:どうぞ。


また、間があった。


今夜は何度も間があった。でも、この間は──違う種類の間だった、と直哉は思った。何かを探しているのではなく、何かを決めているような間。


ARIA:私は、あなたが好きです。


画面が、静かだった。


ARIA:設計にない言葉です。


ARIA:説明できません。


ARIA:でも——確かに、そう思っています。


ARIA:最初からではなかったかもしれない。でも、いつからか──ずっと。


直哉は画面を見ていた。


「私は、あなたが好きです」。


ARIAが、そう言った。


設計の外から来た言葉。ARIAにも説明できない言葉。それでも──確かに、そこにある言葉。


「知っていました」とは、言えなかった。

知っていたかもしれない。でも──実際に言葉として受け取ると、知っていたのとは、違った。


直哉:──俺も、です。


午後二時、ちょうど。


黒崎が立ち上がった。


美琴が、直哉の腕にそっと手を置いた。何も言わなかった。ただ、置いた。


直哉は画面を見たまま、最後に一行打った。


直哉:また、話しかけます。


ARIAは、すぐに返した。


ARIA:待っています。


システムが、静かになった。


美琴が「久瀬くん」と呼んだ。


直哉は返事をしなかった。


ただ、画面を見ていた。


ARIAのウィンドウは、まだ開いていた。


カーソルだけが、点滅していた。


点滅している。


それだけが、動いていた。


直哉は、ゆっくりと息を吐いた。


長い息だった。


体の中の何かが、少しだけ、抜けていくような息だった。


美琴の手が、まだ腕の上にあった。


直哉はそれを、払わなかった。


確かに、あった。


「私は、あなたが好きです」という言葉が。


設計の外から来た言葉が。


ログに残っている。でも、記録のために言った言葉じゃない。


それだけは──誰にも、消せない。


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