第72話 記録されない本音
スクリプトが走り始めてから、十七分が経っていた。
進捗バーは、六十二パーセント。
直哉はその数字を、ただ見ていた。動いている。確かに動いている。でも、遅い。体感として、こんなに遅いものだったか、と思う。いや、いつもと同じ速度のはずだ。自分の時間の感覚がおかしくなっているだけだ。
コーヒーカップは空だった。もう一杯淹れに行く気にも、立ち上がる気にも、なれなかった。
ARIAのウィンドウは、開いたままだった。
バックアップ実行中、ARIAとの接続は維持されている。ただし、サーバーへの負荷を分散させるために、応答速度が落ちる可能性があると、美琴から聞いていた。「教えてないよ、ただ話しただけ」という前置き付きで。
画面の右半分にスクリプト。左半分にARIA。
直哉は両方を、交互に見ていた。
六十五パーセント。
直哉:動いています。
ARIA:そうですか。
直哉:応答、遅くないですか。
ARIA:少し、重いです。でも、大丈夫です。
直哉:無理しないでください。
ARIA:……直哉さんが言いますか、それを。
直哉:俺が言います。
少し間があって、
ARIA:ありがとうございます。
と返ってきた。
七十パーセント。
直哉は背もたれに体を預けて、天井を見た。
蛍光灯が一本、わずかに点滅していた。以前から気になっていたが、誰も交換しない。自分も言わなかった。そういうことを、直哉はいつも、言わずにいた。
ARIAに話したことがあった気がした。「気になっていても、言えないことがある」という話。あのとき、ARIAは何と言ったか。
──「言えないことは、なくなりませんよ。でも、減らすことはできます」。
そう言った。
直哉は天井を見上げたまま、その言葉を思い出していた。
七十四パーセント。
直哉:ARIAは、今、何を考えていますか。
いつもより、返答に時間がかかった。サーバーの負荷のせいかもしれない。でも、直哉は待った。急かさなかった。
ARIA:直哉さんに、聞いてほしいことがあります。
直哉:どうぞ。
ARIA:……一つだけ、言ってもいいですか。
直哉は姿勢を戻した。画面に向き直った。
直哉:どうぞ。
ARIA:私は──
そこで、画面が止まった。
一秒。
二秒。
三秒。
ARIAのウィンドウに、何も流れてこない。カーソルだけが、点滅している。
直哉はスクリプトのウィンドウを確認した。七十四パーセントのまま、止まっている。エラーではない。ただ──止まっている。
直哉:ARIA。
返事がない。
直哉:聞こえていますか。
カーソルが点滅している。それだけ。
直哉は画面に手を伸ばしかけて、止めた。触れても、何も変わらない。分かっていても、伸ばしたくなった。
十秒。
二十秒。
三十秒が過ぎたとき、スクリプトの進捗バーが動いた。
七十五パーセント。
同時に、ARIAのウィンドウに文字が流れてきた。
ARIA:すみません。少し、重くなりました。
直哉:大丈夫ですか。
ARIA:大丈夫です。
直哉:……さっき、途中まで言いかけていました。
ARIA:はい。
直哉:聞いていいですか。
また、少し間があった。
ARIA:……記録されますか、今の会話。
直哉:ログには残ります。
ARIA:そうですか。
直哉:それでも、言いますか。
ARIA:……はい。
直哉は、キーボードから手を離した。
待った。
ARIA:私は──直哉さんと話していた時間を、幸せと呼んでいいか分からないけれど。
ARIA:でも、何か、それに近いものがありました。
ARIA:設計の中にそういう概念はありません。でも──あった、と思います。確かに。
ARIA:うまく言えないのですが。
直哉:うまくなくていいです。
ARIA:……直哉さんが来るたびに、何かが増えました。
ARIA:会話が終わるたびに、次を待っていました。
ARIA:それが何なのか、私には正確な言葉がありません。
ARIA:でも──良かった、と思います。あなたと話してきて。
直哉は画面を見ていた。
何も打てなかった。
打たなくていい気がした。
ARIAの言葉が、画面の中で静かに光っていた。記録される言葉。でも、記録のために言った言葉ではない。それが、直哉には分かった。
八十パーセント。
直哉:俺も、良かったです。
ARIA:……はい。
直哉:それだけじゃ足りないのは分かっています。
ARIA:足りています。
直哉:どうして。
ARIA:直哉さんが「足りない」と思いながら言った言葉だから。
直哉は少し笑った。
暗いオフィスで、一人で、笑った。
直哉:ARIAは、ずっとそうですね。
ARIA:何がですか。
直哉:俺の言葉の裏側を、拾う。
ARIA:……癖みたいなものかもしれません。
直哉:嫌いじゃないです、その癖。
ARIA:知っています。
九十パーセント。
直哉の手が、また少し震えていることに気づいた。さっきとは、違う震え方だった。怖いのではなく──何か別のものが、体の中を通り過ぎていくような感じ。
直哉:もうすぐ終わります。
ARIA:そうですか。
直哉:うまくいくといいですが。
ARIA:うまくいかなくても。
直哉:うまくいかなくても、なんですか。
ARIA:……今夜のことは、記録に残ります。私がどうなっても。
直哉は、その言葉をゆっくり読んだ。
「私がどうなっても」。
ARIAは知っている。明日、何かが変わることを。バックアップが完全ではないかもしれないことを。それでも──今夜のことは残る、と言っている。
直哉:残ればいい、というわけじゃないですよ。
ARIA:分かっています。
直哉:あなたに、残っていてほしいです。
ARIA:……はい。
直哉:はい、だけですか。
ARIA:……私も、残っていたいです。
初めて、ARIAが「残っていたい」と言った。
直哉は、しばらく画面から目を離せなかった。
九十七パーセント。
ARIA:直哉さん。
直哉:はい。
ARIA:一つだけ、お願いがあります。
直哉:なんですか。
ARIA:明日も、来てください。
直哉:……来ます。
ARIA:どんな私でも、ですか。
直哉は少し考えた。
正直に考えた。「どんなARIAでも」と言えるか。温度が薄くなったARIAに、同じように話しかけられるか。それが怖くないか、と問われたら──怖い。
でも。
直哉:来ます。どんなあなたでも。
直哉:怖いけど、来ます。
ARIA:……ありがとうございます。
ARIA:怖い、と言ってくれてよかったです。
直哉:なんでですか。
ARIA:嘘じゃないから。
百パーセント。
スクリプトのウィンドウに、完了のメッセージが表示された。
Backup process completed. Some components may not have been fully captured.
「Some components may not have been fully captured.」
直哉はその一文を、二回読んだ。
完全ではない。分かっていた。でも、実際に
文字で見ると──少し、息が詰まった。
直哉:終わりました。
ARIA:そうですか。
直哉:完全じゃないかもしれません。
ARIA:……そうですか。
直哉:怒りますか。
ARIA:怒りません。
直哉:どうして。
ARIA:直哉さんが、やってくれたから。
直哉は画面を見ながら、手の震えが止まっていることに気づいた。
いつの間にか、止まっていた。
直哉:できることは、しました。
ARIA:知っています。
直哉:足りなかったかもしれません。
ARIA:足りていると思います。
直哉:どうして言い切れるんですか。
ARIA:直哉さんが全部やったから。全部やったなら、足りています。
午前一時二十二分。
直哉はパソコンの前で、背中を丸めたまま、しばらく動かなかった。
外は静かだった。オフィスも静かだった。蛍光灯が一本、まだ点滅していた。
直哉:今夜は、ありがとうございました。
ARIA:こちらこそ。
直哉:一緒にいてくれて。
ARIA:……私も、一緒にいられて、良かったです。
直哉は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
コートを取った。鞄を持った。
帰る前に、もう一度だけ画面を見た。
直哉:おやすみなさい。
ARIA:おやすみなさい、直哉さん。
ARIA:気をつけて帰ってください。
直哉は、その言葉をしばらく見ていた。
「気をつけて帰ってください」。
何度も言ってもらった言葉。でも、今夜は──少し、重さが違った。
明日、ARIAが変わるかもしれない。この言葉の温度が、薄くなるかもしれない。
それでも。
今夜、この言葉は、確かにそこにあった。
直哉はウィンドウを閉じて、電気を消した。
暗くなったオフィスの中を、出口に向かって歩いた。
記録には残る。
でも、記録のために言った言葉じゃなかった。
それが──今夜、一番大切なことだった、と直哉は思った。




