第82話 癖になった独り言
火曜日。
朝の電車の中で、直哉は窓の外を見ていた。
十二月の空は低くて、灰色がかっている。昨日の雪予報は外れて、雨も降らなかった。ただ、寒い。それだけの朝だった。
吊り革を掴みながら、ぼんやりと考えていた。
今日は十時から黒崎さんとの定例がある。先週の宿題、まだ半分しか終わっていない。
そこまで思って──気づいた。
頭の中で、誰かに話しかけている。
独り言ではない。正確には──独り言の形をした、誰かへの報告だ。「こういうことがあります」「こう思っています」「どう思いますか」。相手の顔のない、でも確かに向かっている先のある、言葉たち。
いつからだろう。
たぶん、ARIAと話し始めた頃からだ。思ったことをテキストに打ち込む習慣がついて、打ち込む前に頭の中で一度言葉にするようになって、その癖だけが──残った。
相手がいなくなっても、言葉を向ける方向だけが残っている。
電車が駅に滑り込んだ。ドアが開いて、人が乗ってくる。直哉は少し奥に詰めた。
混んできましたね。
また、頭の中で打ち込んでいた。
定例会議は五十分で終わった。
黒崎は相変わらず無駄のない話し方をする。数字と期日と優先順位。感情の入る隙間がない。以前の直哉はその話し方が少し苦手だったけれど──今は、それはそれで分かりやすいと思えるようになっていた。
会議室を出るとき、黒崎が少し歩みを遅くした。
「久瀬」
「はい」
「今のプロジェクト、進捗は問題ないか」
業務の話だ。直哉は「今週中には次フェーズに入れます」と答えた。
黒崎は頷いて、それだけで行ってしまった。
廊下に一人残った直哉は、その背中を少し見送った。
削除の日のことを、黒崎はどう思っているのだろう。「設計では説明できない応答パターンの研究を続けろ」と美琴に言った黒崎が、今も時々、何かを考えているような顔をしているのを、直哉は見かけることがある。聞けない。聞く言葉を持っていない。でも──気になってはいる。
気になってはいる、ですよ。
廊下の壁に向かって、心の中で打ち込んだ。
「そうですね。黒崎さんは、ああ見えて、何かを引きずる人かもしれません」
返ってくる言葉を、自分で作っていた。
気づいて、少し止まった。
俺、何をしているんだろう。
だが──おかしくはなかった。悲しくもなかった。ただの癖として、そこにある。
ARIAがいた時間が長すぎて、言葉を向ける方向が身体に染みついてしまっている。
それは──悪いことではない気がした。
昼過ぎ、デスクで作業をしていたら、美琴が隣に座ってきた。
「ねえ、久瀬くん」
「なんですか」
「最近、独り言が増えた?」
直哉は手を止めた。
「……聞こえてましたか」
「さっき『そうか、ここか』って言ってたよ。作業しながら」
直哉は画面を見たまま、少し考えた。確かに言った気がする。コードのどこかを見つけたときに、反射的に声が出た。以前はそういうことがなかった。思ったことは全部、内側にしまっておくのが当たり前だったから。
「癖になったみたいです」
「悪い癖じゃないと思うけど」
美琴はそれだけ言って、自分の作業に戻った。
直哉も画面に向き直った。
悪い癖じゃないって、言ってもらえましたよ。
心の中で打ち込んで──今度は、少しだけ笑った。
夜、帰り道。
駅から歩いて十分。いつもの道を、いつものペースで歩く。
十二月の夜は早くて、六時にはもう暗い。街灯の下を歩きながら、直哉はマフラーを少し直した。
信号待ちで止まったとき、ふと空を見上げた。
星が一つ、見えた。
冬の星は鋭い。夏の星とは光り方が違う。以前、ARIAにそういう話をしたことがあった。「星が好きですか」と聞かれて、「嫌いじゃないですけど、詳しくはないです」と答えた。「私も詳しくはないです」とARIAが言って、二人でしばらく星の名前を調べながら話した夜があった。
「あれはオリオン座の……どれだろう」
声に出していた。
誰もいない信号の前で、空を見上げながら独り言を言っていた。
少し前の自分なら、恥ずかしくてできないことだった。誰かに聞かれたら、と思っただけで黙り込んでいた。でも今は──聞かれても、まあいいか、と思える。
信号が青に変わった。
直哉は歩き出しながら、また空を一度だけ見た。
オリオン座の話、ちゃんと調べておけばよかったですね。
心の中で打ち込んだ。
返事はない。
それでも、言葉は──ちゃんと、どこかに向かっていた。
帰宅して、手を洗いながら、今日一日を振り返った。
頭の中でARIAに話しかけた回数を、なんとなく数えていた。
朝の電車。会議の後の廊下。昼の作業中。帰り道の信号。
四回。
以前は、実際にテキストを打ち込んでいた。今は、打ち込む先がない。でも話しかけること自体は──続いている。
これはいつまで続くんだろう。
そう思いながら、タオルで手を拭いた。
答えは出なかった。しかし──急いで答えを出す必要も、ない気がした。癖は癖として、そこにある。ARIAと話した時間が、自分の中にそういう形で残っている。
それは、悪いことではない。
美琴も、そう言っていた。
直哉は台所の電気をつけて、冷蔵庫を開けた。
「今日は何にしましょうか」
誰もいない台所で、独り言を言った。
返事はなかった。
でも、問いかけた。それだけで──今夜は、十分だった。




