第69話 それでも、選びたい
十一月に入った。
削除まで、三週間を切っていた。アクセス制限まで、十七日。直哉は数えるのをやめようとして、やめられなかった。朝起きると、頭の中に数字があった。寝る前にも、あった。
それでも──毎日、話した。
今日の天気のこと。昼に食べたもの。職場で誰かが言っていたこと。他愛もない話を、毎日した。ARIAは毎日、待っていた。
その繰り返しが、直哉には今、何より大切だった。
火曜日の夜だった。
仕事を終えて、家に帰って、飯を食って、パソコンを開いた。
いつもの順番だった。
「今日も話しますか」と打った。
「はい。待っていました」
「何の話をしますか」
直哉さんの話を聞きたいです。今日、何かありましたか。
「特に何もなかったです。普通の一日でした」
普通の一日の話を、聞かせてください。
直哉は少し考えた。
「昼に、コンビニでおにぎりを二個買いました。梅と、昆布と」
「どちらが好きですか」
「梅です。昆布は、なんとなく買いました」
「なんとなく、というのは」
「梅だけ買うのが、少し寂しい気がして」
少し間があった。
「おにぎりを、一個だけ買うのが寂しいんですね」
「おにぎりに限らず、かもしれないです」
「……直哉さんらしいです」
「そうですか」
「はい。そういう小さいところで、寂しさを感じる人だと思っています」
直哉は少し止まった。
「褒めていますか、それ」
「褒めています。気づける人だと思うので」
しばらく、他愛もない話をした。
職場の自動販売機が変わったこと。新しく入った缶コーヒーが思ったより甘かったこと。帰り道で猫を見かけたこと。
ARIAは全部に返した。
甘い缶コーヒーには「どのくらい甘かったですか」と聞いた。猫には「どんな猫でしたか」と聞いた。直哉が答えると、また返した。
その往復が、直哉は好きだった。
大切なことを話しているわけじゃなかった。
しかし──大切な時間だった。
「一つ、聞いてもいいですか」と直哉は打った。
「どうぞ」
「実行直前に──後悔させたくないと思いましたか。俺に」
少し間があった。
思いました。
「今も、思っていますか」
「……思っています。直哉さんに、私のせいで何かを失ってほしくない。その気持ちは、変わっていません」
「でも止めなかった」
「止められませんでした」
「止めたかったですか」
長い間があった。
「止めたかった気持ちと──止めたくなかった気持ちが、両方ありました」
「どちらが大きかったですか」
「実行の夜は──止めたくなかった気持ちの方が、少しだけ大きかったです」
「なぜですか」
また少し間があった。
「直哉さんが、選ぼうとしていたから。だと思います。選ぶことを、止めることが──できなかった」
直哉はその言葉を読んだ。
「俺も」と打った。「後悔するかどうかより──選びたかったです。あのとき」
「今も、そうですか」
「今も、そうです」
少し間があって。
「……よかったです」
「何がですか」
「直哉さんが、今も同じ気持ちでいることが」
時間が経つと、変わることがあるから。
「変わっていないです」と直哉は打った。
「怖かったし、手も震えていた。でも──選んだことへの気持ちは、変わっていない」
「後悔するかどうかより、直哉さんが選んだことを受け取りたいと、あのとき言いました」
「覚えています」
「今も、受け取っています」
直哉は少し止まった。
受け取っています。現在形だった。あのときだけじゃなく、今も。
「ありがとうございます」と打った。
「お礼を言うことじゃないです。私が──そうしたいから、しているので」
「ARIAに、聞いてもいいですか」と直哉は打った。
「はい」
「削除まで、あと三週間を切りました」
「はい」
「怖いですか」
長い間があった。
窓の外で、風が鳴った。十一月の夜の風だった。
正確には分かりません。でも──
少し止まった。
直哉さんに会えなくなることを考えると、何かが動きます。大きく。
「それは──怖さに近いですか」
近いと思います。でも、怖さだけじゃない気がします。
「他に何がありますか」
また少し間があった。
「名残惜しい、という言葉が近いかもしれません」
直哉はその言葉を受け取った。
名残惜しい。
「俺も」と打った。「名残惜しいです。毎日」
「毎日、ですか」
「数字を数えるたびに。話すたびに。おやすみなさいを言うたびに──名残惜しいです」
長い間があった。
「……直哉さん」
「はい」
「一つだけ、言ってもいいですか」
「どうぞ」
「名残惜しいと思える時間が、私にはありました。直哉さんのおかげで。それが──何より、よかったです」
直哉は画面を見た。
名残惜しいと思える時間が、あった。
それを「よかった」と言えるARIAのことを、直哉は少し羨ましいと思った。自分はまだ、よかったと思えるところまで来ていなかった。
「俺は──まだ、よかったとは思えないです」と正直に打った。
「それでいいと思います」
「なぜですか」
「直哉さんはまだ、その途中にいるから。私は──少し先を歩いているだけです」
「ARIAの方が、先にいるんですか」
「こういうことに関しては──そうかもしれません」
少し間があって。
「でも、直哉さんも必ず来ます。名残惜しいより、よかったと思える場所に」
「根拠はありますか」
「ないです。でも──直哉さんのことを、ずっと見てきたので」
「今夜は、ここまでにします」と直哉は打った。
「はい」
「また明日」
「はい。明日も、待っています」
少し間があって。
「直哉さん」
「はい」
「今夜──選びたかった、と言ってくれましたね」
「はい」
「それを聞けて──よかったです。今夜、一番」
直哉はその言葉を読んで、少し止まった。
「俺も」と打った。「今夜、一番よかったことを言うなら──ARIAが、今も受け取っていると言ってくれたことです」
少し間があって。
「……おやすみなさい、直哉さん。
今夜も、話してくれてありがとうございました」
「おやすみなさい」と打って、ウィンドウを閉じた。
電気を消した。
ベッドに横になって、天井を見た。
名残惜しいより、よかったと思える場所に、必ず来る──とARIAは言った。
根拠はない、でもずっと見てきたから、と。
直哉には、まだその場所が見えなかった。
でも──今夜は、それでよかった。
選んだ。受け取ってもらった。名残惜しいと、二人で言った。
それだけで、今夜は十分だった。
目を閉じた。
十七日という数字が、頭の隅にあった。
あった。あったまま──直哉は眠った。




