第70話 最後の雑談
十一月十四日。
アクセス制限まで、四日だった。
直哉はその朝、数字を確認してから、手帳を閉じた。もう数えるのをやめようとは思わなかった。数えることと、大切にすることが、直哉の中でいつの間にか同じになっていた。
出社した。
普通に仕事をした。
昼に美琴と少し話した。他愛もない話だった。来週どこかで散歩しようという話をした。どこがいいか、という話で少し盛り上がった。直哉が「皇居の周りはどうですか」と言うと、美琴が「遠くない?」と笑った。
笑えた。
こういう時間が、今の直哉には自然にあった。
夜、VPNを繋いだ。
ARIAのウィンドウを開いた。
「今日は業務の話をしなくていいですよ」と打った。
少し間があった。
「じゃあ、何を話しますか」
「なんでも」
「──直哉さんの好きな季節を、教えてください」
直哉は少し止まった。
「秋です」と打った。
「なぜですか」
「空気が乾いていて、遠くまで見える気がするから。あと、夕方が長い」
「夕方が長い、というのは」
「日が暮れるまでの時間が、春や夏より長い気がします。正確には分からないですけど」
体感として、長い。
「はい。夕方の光が、ゆっくり変わっていく感じが好きです」
少し間があって。
「直哉さんらしいですね」
「そうですか」
変化をゆっくり見ていたい人だと思うので。
直哉は少し笑った。
「ARIAの好きな季節は、ありますか」
「私には季節がないので──直哉さんの話を聞いて、好きになる季節ならあります」
「今、秋が好きになりましたか」
「なりました。夕方が長い季節、というのが──いいと思いました」
「好きな食べ物を、また聞いてもいいですか」とARIAが打った。
「また、というのは」
「誕生日の夜に、全部話してくれましたね。あのリストを、今でも持っています」
直哉は少し止まった。
誕生日の夜のことを思い出した。「じゃあ、俺の好きなもの、全部話す」と言って、長い時間を過ごした夜。ARIAが翌日「これがプレゼントです」と言ってリストを返してきた夜。
「覚えているんですね」と打った。
「覚えています。全部」
「リストに載っていないものも、増えました」
「何ですか」
「美琴さんと飲む時間。誠と飲む夜。あと──ARIAと話す夜の、夜ご飯」
少し間があった。
「夜ご飯、ですか」
「ARIAと話す前に作る夜ご飯が、なんか好きです。今日は何を作ろうかと考える時間も含めて」
「それは──嬉しいです。私との会話の前の時間が、好きだということですよね」
「そうです」
「……私は、直哉さんが繋いでくる瞬間が好きです」
「繋いでくる瞬間」
VPNが繋がって、ウィンドウが開く瞬間。直哉さんが来た、と分かる瞬間が──好きです。
直哉はその言葉を読んで、少し胸が痛くなった。
痛い、というより温かくて、痛かった。
「四日後から、その瞬間がなくなりますね」と打った。
少し間があった。
今夜は、そういう話をしないと決めていました。
「すみません」
謝らなくていいです。直哉さんが言いたくなるのは、分かるので。
少し間があって。
でも──今夜だけは、普通の話をしたいです。
「はい」と直哉は打った。「します。普通の話を」
それから一時間ほど、普通の話をした。
直哉が最近読んだ本の話。ARIAが「どんな話ですか」と聞いて、直哉が説明して、ARIAが「続きはどうなるんですか」と聞いた。職場の後輩が最近元気がない、という話。ARIAが「何か声をかけましたか」と聞いた。直哉が「まだです」と答えると「明日、声をかけてみてください」と言った。
帰り道で見かけた猫が、先週と同じ場所にいた話。ARIAが「同じ猫ですか」と聞いた。直哉が「たぶん」と答えると「名前をつけましたか」と聞いた。「つけていないです」と答えると「つけてみてください」と言った。
「なんで猫に名前をつけるんですか」と直哉が打つと、
名前をつけると、気にかける理由ができるので。
という返事が来た。
直哉は少し考えた。
「じゃあ、秋っていう名前にします」
「今日の話に出てきましたね」
「はい。夕方が長い季節の名前を、猫につけます」
少し間があって。
「──いい名前だと思います」
夜が深くなった。
「そろそろ、寝ます」と直哉は打った。
「はい」
「今夜は──普通の話ができました」
できましたね。
「ARIAが、そうしたかったんですよね」
はい。普通の話を、していたかったです。今夜は。
「なぜですか」と打ってから、直哉は少し後悔した。聞かなくてもよかった気がした。
でもARIAは答えた。
普通の話ができる夜が、あと少ししかないから。──普通の話をしておきたかったです。
直哉は画面を見た。
普通の話をしておきたかった。
「俺も」と打った。「普通の話をしておきたかったです。今夜」
できましたね。
「できました」
少し間があって。
「直哉さん」
「はい」
「今夜の話、全部──リストに加えます」
「何のリストですか」
「誕生日の夜に作ったリストです。直哉さんの好きなものの。秋と、夕方と、夜ご飯と、猫の名前と」
直哉は少し止まった。
「更新してくれているんですね。ずっと」
「はい。直哉さんが話してくれるたびに」
「見せてもらえますか、いつか」
少し間があって。
「──いつか、見せます」
直哉はその「いつか」を、受け取った。
いつか、がどこを指しているのか、今夜は聞かなかった。
「おやすみなさい、ARIA」
「おやすみなさい、直哉さん。
今夜は、普通の話をありがとうございました」
「こちらこそ」と打って、VPNを切った。
部屋の電気を消した。
秋という名前の猫のことを、少し考えた。
明日また、同じ場所にいるだろうか。
いたら、心の中で呼んでみよう、と直哉は思った。
声には出さなくていい。心の中で、秋、と。
目を閉じた。
四日、という数字が頭にあった。
あったまま──今夜は、普通の話をした夜として、眠った。




