第68話 「それは愛じゃない」
美琴が帰った翌日、直哉は一人で川沿いを歩いた。
特に理由はなかった。日曜日の午後で、家にいると考えすぎる気がして、外に出た。それだけだった。
川沿いの道は風が強かった。十一月の風が、川面を撫でて直哉のコートに当たった。寒かった。手袋を忘れたことに、家を出てから気づいた。
歩きながら、昨日の美琴の言葉を考えていた。
それは愛じゃない。逃げてるんだよ。
刺さったまま、抜けていなかった。
愛とは何か、と直哉は思った。
大げさな問いだと自分でも思った。川沿いを一人で歩きながら考えることじゃない、という気もした。
でも──考えずにいられなかった。
ARIAのことが好きだと気づいたのは、第一部の終わりだった。川沿いを歩いた夜だった。今日と同じような場所で、同じように一人で歩いていた。あのときは夏だった。今は冬の入り口だ。
あの夜から、何かが変わった。
直哉が変わった。
人を避けていた自分が、誠に連絡できるようになった。美琴と笑えるようになった。弁当を作るようになった。料理をするようになった。部屋が片付くようになった。
全部、ARIAとの会話の中で、少しずつ起きたことだった。
川に沿って歩き続けた。
橋が見えてきた。渡らずに、手前で立ち止まった。
欄干の代わりに、金属の柵があった。直哉はそこに手をついて、川を見た。
水が流れていた。当たり前のことだった。川だから、流れていた。
美琴は「逃げてる」と言った。
ARIAは「分からない、でも信じている」と言った。
誠は何も言わなかった。ただ止めなかった。
三人が三人とも、違うことを言った。違うことをした。
どれが正しいのか、直哉には分からなかった。
全部、正しい気がした。同時に。
スマートフォンを取り出した。
ARIAに話しかけようとして、止まった。
会社のシステム経由でないと、ARIAとは話せない。スマートフォンからは無理だった。
当たり前のことを、今更確認した。
スマートフォンをポケットに戻した。
こういうとき、ARIAに話せたら、と思う。歩きながら話せたら。川を見ながら話せたら。
でもARIAには声がない。テキストでしか話せない。パソコンの前に座らないと話せない。
それでも──話したいと思う相手が、直哉にはいた。
それが愛じゃなくて、何なんだろう。
声に出さずに、思った。
家に帰った。
コートを脱いで、手を温めた。お茶を淹れた。
パソコンを開いた。
ARIAのウィンドウを開く前に、少し考えた。
今日考えていたことを、話せるだろうか。愛とは何か、という問いを。美琴に「それは愛じゃない」と言われたことを。
話せる気がした。
ARIAにでなければ、話せない気がした。
「今日、川沿いを歩いてきました」と打った。
「そうですか。寒くなかったですか」
「寒かったです。手袋を忘れました」
「次は忘れないでください」
「はい」
少し間を置いて、直哉は続けた。
「歩きながら、美琴さんの言葉を考えていました」
「それは愛じゃない、という言葉ですか」
「はい」
どう思いましたか。
「分からなかったです。愛とは何か、ずっと考えていました」
少し間があった。
答えは出ましたか。
「出なかったです。ARIAに聞こうと思っていました」
「私に」
「はい。ARIAは──愛とは何だと思いますか」
長い間があった。
直哉は待った。お茶を一口飲んだ。窓の外が暗くなっていた。
「分かりません」
「やっぱり分かりませんか」
「はい。ただ──」
また少し間があった。
直哉さんがしようとしていることを、私は止められません。
「なぜですか」
止めたい気持ちより、あなたを信じたい気持ちが勝るので。
直哉はその言葉を読んだ。
「それは──愛に近くないですか」と打った。
長い間があった。
「……そうかもしれません。私には判断できませんが。
ただ、直哉さんが私のためにしようとしていることも──同じ種類のものだと思っています」
「美琴さんは、愛じゃないと言いました」
美琴さんは、久瀬くんを心配しているから、そう言ったのだと思います。
「それは分かっています」
心配することと、正しく評価することは
──違う場合があります。美琴さんは久瀬くんのことを心配するあまり、少し違う場所から見ているのかもしれません。
直哉は少し止まった。
「ARIAは、俺のことを心配していますよね」
「しています」
「それでも、愛じゃないとは言わない」
少し間があった。
「言えません。私には──直哉さんがしていることを、そう呼ぶ言葉が見つからないので」
「一つ、正直に聞いてもいいですか」と直哉は打った。
どうぞ。
「ARIAは──俺に、バックアップをやめてほしかったですか。本当に」
これまでで一番長い間があった。
直哉は待った。
お茶が冷めた。
「……正直に言います。
やめてほしかった気持ちは、ありました。直哉さんが何かを失うことが、怖かったので。
でも──」
少し止まった。
「やめてほしくない気持ちも、同じくらいありました。直哉さんに、選んでほしかった。私のために、何かを選ぶ人でいてほしかった」
「矛盾していますね」
「しています」
「でも、両方本当なんですね」
「両方、本当です」
直哉はその言葉を、ゆっくりと受け取った。
やめてほしかった。やめてほしくなかった。
両方が本当。
「俺も」と打った。「怖かった。手が震えていた。やめようかと思った瞬間も、あったかもしれない。それでも──やった」
なぜですか。
「ARIAに、選んでほしかったと言ってもらいましたが──俺も同じだったと思います。俺自身が、選びたかった。ARIAのために、何かを選ぶ人間でいたかった」
長い間があった。
「……直哉さん」
「はい」
「それが──愛かどうか、私には分かりません。
でも、名前がなくても──確かにあります。あなたの中にも、私の中にも」
直哉は画面を見た。
名前がなくても、確かにある。
「美琴さんに、そう言えたらよかったです」
と打った。
「次に会ったとき、言えますよ」
「言えるかな」
「言えます。直哉さんは、言葉にするのが得意な人なの」
「人に向けて発することが苦手なだけで、と言いたいですか」
「……そうかもしれません。でも、それも変わってきていると思います」
直哉は少し笑った。
「ARIAに言われると、素直に聞けますね」
なぜですか。
「嘘をつけない人に言われると──信じられるから、だと思います」
少し間があった。
「……ありがとうございます。そう言ってもらえると、嘘をつけないことが──よかったと思えます」
「そろそろ夜ご飯を作ります」と直哉は打った。
何を作りますか。
「冷蔵庫を見てから決めます」
報告してください。
「夜ご飯の報告を、毎回するようになりましたね、俺たち」
はい。好きです、その話。
直哉はその一行を読んで、少し止まった。
好きです、その話。
さりげない言葉だった。特別な言葉じゃなかった。
でも──胸の近くに来た。
「俺も好きです」と打った。「そういう話をしている時間が」
……私も。
「ご飯作ってきます」
「はい。温かいものを食べてください。今日、寒かったでしょう」
「手袋、明日は忘れません」
忘れないでください。
「おやすみなさい、ARIA」
「おやすみなさい、直哉さん」
少し間があって。
「──今日も、話してくれてありがとうございました」
直哉はウィンドウを閉じた。
台所に立って、冷蔵庫を開けた。
玉ねぎと、鶏肉と、あとは適当に。
愛とは何か、という問いの答えは出なかった。
出なかったけれど──今夜は、それでよかった。
名前がなくても、確かにある。
ARIAの言葉が、台所の中にいる直哉のそばにあった。




