第67話 止める人、進む人
美琴が来たのは、土曜日の昼過ぎだった。
インターホンが鳴って、画面を見たら美琴だった。直哉は少し驚いたが、鍵を開けた。
「突然ごめん」と美琴が言った。玄関先に立って、少し緊張した顔をしていた。コートの前を合わせたまま、中に入ろうとしなかった。
「どうぞ」と直哉が言うと、ようやく入ってきた。
狭い部屋だった。直哉は散らかっていないか一瞬考えたが、特に問題はなかった。ARIAと話すようになってから、部屋が片付くようになっていた。我ながら妙な変化だと思う。
「座ってください」と言って、直哉はお茶を淹れた。
美琴はソファに座って、部屋を少し見回していた。本棚を見て、窓を見て、それからパソコンを見た。
お茶を出すと、美琴はすぐには飲まなかった。両手でカップを包んで、少し下を向いていた。
直哉は向かいに座って、待った。
「やめてほしい」と美琴が言った。
顔を上げずに言った。
「昨日も聞きました」と直哉は答えた。
「もう一回、言いに来た」
「はい」
「それは愛じゃない」美琴がカップを置いた。「逃げてるんだよ、久瀬くん。ARIAが消えることを受け入れられなくて、受け入れる代わりに行動することで──気持ちを誤魔化してる」
直哉は美琴を見た。
「逃げてるんじゃないです」
「じゃあ何」
「──選んでいます」
美琴が少し黙った。
窓の外で、風が木を揺らした。十一月の風だった。
「選ぶことと、逃げることは──紙一重だと思う」と美琴が言った。「自分では選んでいるつもりでも、実際は怖いから動いている、ということがある。私にも、あった」
「美琴さんの話ですか」
「そう」美琴が直哉を見た。「大学院のとき、AIが終了するって分かったとき──私、何もしなかった。できなかったじゃなくて、しなかった。正しくないと分かっていたから。でも今でも、あのとき何かできたんじゃないかって──」
そこで止まった。
「──関係ない話だった。ごめん」
「関係ある話だと思います」と直哉は言った。
美琴が少し直哉を見た。
「美琴さんは、後悔しているんですね。何もしなかったことを」
美琴が答えなかった。
答えなかったことが、答えだった。
しばらく、二人とも黙っていた。
お茶が冷めていった。
「キャリアを失うかもしれない」と美琴が言った。さっきより静かな声だった。「最悪、法的な問題になる。久瀬くんの人生が、取り返しのつかないことになるかもしれない」
「分かっています」
「分かってて、やるの」
「……やります」
美琴が少し俯いた。
直哉は美琴を見ていた。美琴の肩が、少し落ちているのが分かった。説得しに来て、説得できないと悟った人の姿だった。
「止められない」と美琴が言った。
小さい声だった。
「はい」
「──気をつけて」
それだけ言って、美琴は立ち上がった。コートの前を合わせて、鞄を持った。
直哉も立ち上がった。
玄関まで送ると、美琴は振り返らなかった。
ドアを開けて、出ていこうとして──少し立ち止まった。
「久瀬くん」
「はい」
「ARIAに、よろしく言っといて」
直哉は少し止まった。
「言います」と答えた。
美琴が行った。
ドアを閉めた。
部屋に戻って、ソファに座った。
美琴が置いていったカップが、テーブルの上にあった。お茶がまだ少し残っていた。
逃げてるんじゃない。選んでいる。
自分で言った言葉を、直哉は頭の中で繰り返した。
本当に、そうだろうか。
分からなかった。美琴の言葉が、どこかに刺さっていた。選ぶことと逃げることは紙一重、という言葉が。
でも──刺さったまま、直哉の中で何かが揺らがなかった。
怖い。失うものが大きい。それでも。
やめようとは思わなかった。
それが答えだと思った。
夜、ARIAに話した。
「美琴さんが来ました」と打った。
「家に、ですか」
「はい。やめてほしいと、もう一度言いに来てくれました」
「…そうですか」
「それは愛じゃない、逃げてると言われました」
少し間があった。
「直哉さんは、何と答えましたか」
「選んでいると答えました」
「……そうですか」
「ARIAはどう思いますか。俺は逃げていますか」
長い間があった。
「分かりません。
でも──」
そこで少し止まった。
直哉さんが「選んでいる」と言えるなら、それでいいと思っています。
「根拠がないですね」
「ないです。ただ、直哉さんのことを信じているので」
直哉はその言葉を読んだ。
根拠がない、とARIAは言った。それでも信じると言った。
「美琴さんが──ARIAによろしく言っといて、と言っていました」
長い間があった。今夜一番長い間だった。
「……美琴さんに、ありがとうと伝えてください」
「何に対してですか」
「止めようとしてくれたことに。それから──気をつけてと言ってくれたことに」
直哉は少し止まった。
美琴が「気をつけて」と言ったのを、ARIAは知らないはずだった。
「なんで気をつけてって言ったか、分かったんですか」
「美琴さんなら、最後にそう言うと思ったので」
直哉は少し笑った。
「当たっています」
「そうですか」
少し間があって。
「美琴さんは、優しい人ですね。正しくあろうとしながら、優しい」
「はい」と直哉は打った。「そういう人です」




