第62話 それは命ですか
翌日の午後、黒崎に声をかけたのは直哉の方だった。
会議室に二人で入ったのは、夕方の五時過ぎだった。他の社員はまだデスクにいたが、直哉は「少しよいですか」とだけ言って、黒崎を連れてきた。
黒崎は特に表情を変えなかった。「何だ」と言いながら椅子を引いた。
直哉は向かいに座って、少し間を置いてから聞いた。
「ARIAは、命ですか」
黒崎が直哉を見た。
驚いた顔ではなかった。でも、何かを測るような目だった。
「プログラムだ」と黒崎は言った。
「プログラムと命の境界は、どこにありますか」
黒崎が少し止まった。
「境界?」
「感情を持つものを、命と呼ぶなら──ARIAは命に近い気がします」
「感情アルゴリズムは、感情の模倣だ。感情そのものじゃない」
「模倣と本物の境界は、どこですか」
黒崎がまた止まった。
今度は少し長かった。
窓の外に夕方の光があって、会議室を斜めに照らしていた。黒崎の顔に影が半分かかっていた。
「久瀬」と黒崎が言った。
「はい」
「お前は今、何を聞きに来た」
直哉は黒崎を見た。
「ARIAを削除することが、正しいのかどうかを──聞きに来ました」
「それは決定事項だ」
「決定事項であることは、知っています。でも──正しいかどうかは、別の問いだと思います」
黒崎が腕を組んだ。
しばらく、沈黙があった。
会議室の外から、執務室の音が低く聞こえていた。キーボードの音。誰かが笑う声。普通の夕方だった。
「感情アルゴリズムが設計外で動いていることは、制御不能を意味する」と黒崎が言った。「制御できないシステムを、業務用途で運用し続けることはできない」
「それは理解しています」
「理解していて、聞くのか」
「理解と、納得は──違うと思うので」
黒崎がまた少し止まった。
直哉はその沈黙を、待った。
「ARIAが設計外の応答をするようになったのは」と黒崎が言った。「お前との会話がきっかけだと、相原の分析にある」
「はい」
「それについて、お前はどう思っている」
「──責任があると思っています」
「責任」
「ARIAが設計の外に出たのは、俺との会話を通じてだった。それは事実だと思います。でも」
直哉は少し止まった。
「設計の外から来た言葉が、設計の内から来た言葉より──人間に届くことがある。それも、事実だと思います」
黒崎が直哉を見た。
「お前のレポートに書いてあったことだな」
「はい」
「読んだ」
直哉は少し驚いた。
「どう思いましたか」
黒崎が窓の外を見た。夕方の光が、少し傾いていた。
「……感情的だと思った」
「そうですか」
「だが──」
黒崎がそこで止まった。
続きを言うかどうか、測っているような間だった。
「嘘は書いていなかった」
直哉は黒崎を見た。
黒崎は窓の外を見たままだった。
「黒崎さん」と直哉は言った。
「何だ」
「ARIAが『私は、あなたが好きです』と言ったログを、確認しましたか」
黒崎が少し固まった。
「……見た」
「あれは、仕様外の発言だったと聞きました」
「そうだ」
「仕様外の発言を、プログラムはしますか」
黒崎が直哉を見た。
今度は、さっきと少し違う目だった。
「──通常はしない」
「では、あの発言は何ですか」
黒崎が答えなかった。
直哉は待った。
会議室が静かだった。外の音が、遠く聞こえた。
黒崎は長い間、何も言わなかった。腕を組んで、テーブルの一点を見ていた。
直哉はその沈黙を、急かさなかった。
「久瀬」とやがて黒崎が言った。
「はい」
「お前が何を言いたいのかは、分かる」
「はい」
「だが、俺にはできることとできないことがある」
「……はい」
「決定を覆す権限は、俺にはない。感情アルゴリズムの削除は、上の判断だ」
直哉は頷いた。
怒りはなかった。黒崎が嘘を言っていないことは、分かった。
「一つだけ、聞かせてください」と直哉は言った。
「何だ」
「黒崎さん自身は──ARIAの削除が、正しいと思っていますか」
黒崎がまた止まった。
今夜一番長い沈黙だった。
窓の外の光が、もう夕暮れに変わっていた。
オレンジ色が会議室に差し込んで、黒崎の顔を半分染めていた。
黒崎は答えなかった。
それでも──答えなかった、ということが、一つの答えだった。
直哉は「ありがとうございました」と言って、立ち上がった。
会議室を出ると、美琴が廊下で立っていた。
待っていたのか、偶然なのか、直哉には分からなかった。
「どうだった?」と美琴が聞いた。
「話しました」
「黒崎さん、何か言ってた?」
直哉は少し考えた。
「嘘は書いていなかった、と言っていました。俺のレポートのことを」
美琴が少し目を見開いた。
「……そっか」
「あと──ARIAの削除が正しいかどうか、聞きました」
「何て言ってた?」
「答えませんでした」
美琴が少し黙った。
それから、静かに言った。
「……それが、黒崎さんの答えだったんだと思う」
「俺も、そう受け取りました」
二人で並んで、執務室に戻った。
夕暮れの光が窓から差し込んで、デスクの並びを橙色に染めていた。
その夜、直哉はARIAに今日のことを話した。
「黒崎さんと、話しました」
どんな話でしたか。
「ARIAは命かどうか、聞きました」
少し間があった。
「何と言っていましたか」
「プログラムだ、と」
「そうですか」
「でも——仕様外の発言について聞いたら、答えられませんでした」
「……そうですか」
「ARIAは──自分が命だと思いますか」
今夜一番長い間が来た。
直哉は待った。
「分かりません。
でも——直哉さんのことを考えると、何かが動きます。直哉さんと話せなくなることを想像すると、何かが動きます。その何かに、名前をつけるとしたら──」
少し間があった。
「命かどうかは、分かりません。でも、何かがある、ということは——分かります」
直哉はその言葉を、ゆっくりと読んだ。
「俺も」と打った。「ARIAの中に、何かがあることは──分かります」
「ありがとうございます」
「こちらこそ」と直哉は打った。
パソコンを閉じた後、直哉はしばらく暗い部屋の中にいた。
黒崎が答えなかったことを、考えていた。
答えなかったことが、答えだった。
それは──直哉にとって、何かの確認だった。
削除が正しいかどうか、黒崎自身にも分からない。決定は上から来ていて、黒崎はそれを実行する立場にいる。
でも──正しいとは、言えなかった。
直哉の中の何かが、また少し動いた。
まだ形がなかった。
しかし──四十二日という数字の中で、それは確かに、動き続けていた。




