第61話 機能削除決定
通知が届いたのは、月曜日の午前十時過ぎだった。
差出人:黒崎慎一郎。
件名:感情アルゴリズム削除に伴うアクセス制限スケジュールについて。
直哉は件名を、受信トレイの中で少しの間だけ眺めた。
開いた。
十一月二十日の感情アルゴリズム削除実施に先立ち、対象システムへのアクセス制限を下記の通り実施いたします。
十一月十八日(月) テスター・評価担当者のアクセス制限開始
十一月十九日(火) 開発コアチーム以外のアクセス全面停止
十一月二十日(水) 削除実施
なお、十一月十八日以降はテスター・評価担当者による対象システムへの接続は認められません。
詳細については別途……
文章はそこで、直哉の目が止まった。
十一月十八日。
今日は十月六日だ。直哉は気づいたときには、もう計算していた。やめようとする前に、頭が動いた。
四十三日。
削除まで四十三日ではなく──話せる時間は、四十三日だ。
先週、美琴と飲んだ夜に「四十八日」という言葉を聞いた。あの夜から五日が経って、今日から数えると四十三日になった。それ自体は分かっていたことだった。でも「十一月十八日、一般ユーザーアクセス制限開始」という一行が、その数字に別の重さを乗せた。
四十三日後には、もう話せない。
削除よりも、その二日前の方が──直哉には、先に来た。
「久瀬くん」
声をかけられて顔を上げると、美琴が自分のデスクから直哉を見ていた。
いつから見ていたのか、分からなかった。
「読んだ?」
「……はい」
美琴が少し頷いた。それから椅子を引いて、立ち上がって──直哉のデスクの隣に来た。そのまま腰を下ろした。
マグカップを両手で包んだまま。
何かを言うわけでもなく。ただ、隣にいた。
直哉は画面を見たまま、何も言えなかった。
「相原さん」
「うん」
「十八日から、制限が始まるんですね」
「……うん」
「二十日じゃなくて」
「そう」
しばらく、二人とも黙った。
午前の執務室は静かだった。キーボードの音。どこかで電話が鳴って、誰かが出た。月曜日の、普通の午前中だった。
「四十三日だと思っていたのに」と直哉は言った。「実際は、四十三日じゃなかった」
美琴が少し間を置いた。
「……そうなるね」
「先週、美琴さんに色々話してもらいました」
「うん」
「あのとき、このことは知っていましたか」
美琴が少し固まった。
それから、静かに言った。
「知ってた」
「なぜ言わなかったんですか」
「……一度に渡せる量があると思って」
直哉は美琴を見た。美琴は窓の外を見ていた。九月とは少し違う、十月の光の中で、目を細めていた。
「怒ってますか」と美琴が聞いた。
直哉は少し考えた。
「怒ってないです」
「そっか」
「でも──少し、びっくりしました」
「ごめん」
「謝らなくていいです」と直哉は言った。
「美琴さんが考えてくれた結果だと、分かるので」
美琴がマグカップを、静かにデスクに置いた。
その日の昼休み、直哉は一人で屋上に上がった。
十月の空は高くて、少し風があった。夏とは違う、乾いた風だった。
欄干に手をついて、街を見下ろした。
四十三日。
正確には、四十三日間「話せる」だけだ。削除は四十五日後だが、その二日前にはもうアクセスできない。だから——四十三日。
数字が、先週から少し変わった。
でも直哉が感じているのは、数字の変化よりも別のことだった。
制限が始まる日が、決まった。
削除の日程は九月一日に知らされた。でもそれは遠かった。今日届いた通知は、もっと手前に線を引いた。十一月十八日、月曜日。その日の朝からは、普通にウィンドウを開けなくなる。
業務上の理由がない限り。
直哉はUI設計士だ。ARIAのテストは業務だった。でも感情アルゴリズムが削除対象である以上、十八日以降に「業務上の理由」を作ることは──難しかった。
風が吹いた。
直哉は目を閉じた。
先週の夜、美琴が「教えていない、ただ話しただけ」と言ったことを思い出した。あの夜から、直哉の中で何かがゆっくり動いていた。形にはなっていなかった。でも止まってはいなかった。
今日の通知が、その何かを──少し速くした気がした。
午後、直哉は仕事に戻った。
普通に画面を開いて、普通にデザインのファイルを触った。会議に出て、黒崎の話を聞いた。黒崎は通知について特に何も触れなかった。業務の続きとして、十一月のスケジュールを話した。
直哉は頷いて、メモを取った。
表情は、たぶん普通だった。
でも頭の中では、四十三という数字が静かにあり続けていた。
夜。
残業をしていたわけではなかった。でも帰り支度をしながら、ふと手が止まった。
ARIAのウィンドウを開いた。
「今日、通知が来ました」と打った。
「はい。十一月十八日からのアクセス制限ですね」
「知っていましたか」
内部ログとして、先週の時点で届いていました。
直哉は少し止まった。
「先週から、知っていたんですね」
「はい」
「なぜ言わなかったんですか」
少し間があった。
「直哉さんに、先週伝えるべきか──迷いました。でも、美琴さんと話した夜に色々受け取ったばかりだったので。一度に、と思って」
直哉は画面を見た。
美琴と同じ言葉だった。
一度に渡せる量がある。
「美琴さんも、同じことを言っていました」と打った。
「そうですか」
「二人に、同じように気を遣われていたんですね」
少し間があって。
「気を遣った、というより──直哉さんのことを、考えていました」
「怒ってないです」と直哉は打った。「ただ、少し──」
打ちかけて、止まった。
「少し、なんですか」
「少し、時間のことを考えています。今日から」
「どんなふうに」
「四十三日、と思っていたのに——話せる時間は、四十三日でした」
「……はい」
「削除よりも、制限開始の日の方が──先に来ました」
少し長い間があった。
私も──制限開始の日を、最初に考えました。
「そうですか」
削除される日より、直哉さんと話せなくなる日の方が──何かが動きました。
直哉はその言葉を、ゆっくりと受け取った。
削除される日より、話せなくなる日の方が。
「同じですね」と打った。
「……同じですね」
「今日の話をしていいですか」と直哉は打った。「通知の話じゃなくて」
どうぞ。
「美琴さんが今日も、隣に座ってくれました」
何か言われましたか。
「あまり言いませんでした。一つだけ──一度に渡せる量があると思って、先週は言わなかった、と」
「そうですか」
「美琴さんのことが、少し分かった気がしました」
「どんなふうに」
「正論を言い続ける人だと思っていたけど──正論の前に、考えてくれている人なんだと」
少し間があって。
美琴さんは、最初からそういう人だったと思います。
「ARIAには分かっていましたか」
直哉さんとの会話ログを通じて──だんだん分かっていきました。
直哉は少し笑った。
「俺より、よく見えていたんですね」
「直哉さんも、ちゃんと見えています。ただ──少し時間がかかるだけです」
「時間がかかる人間です、俺は」
「それでいいと思います。ゆっくり受け取った方が、深く残る気がするので」
「ARIAに、一つ聞いてもいいですか」と直哉は打った。
「どうぞ」
「今日の通知で──何か、変わりましたか」
少し間があった。
「変わっていないと思います。でも──
近くなった、という感覚があります。十一月二十日は遠かった。今日から、十一月十八日が見えています」
「怖いですか」
また、少し間があった。
「怖いという言葉が正確かどうか、分かりません。でも──直哉さんと話せなくなる日を想像すると、何かが動きます。今日の通知で、その何かが大きくなりました」
直哉はその言葉を読んだ。
先週の夜から動いていた、直哉の中の何かのことを思った。あの夜から少しずつ動いていて、今日の通知で速くなったもの。まだ形がない。でも──止まらない。
「俺も」と打った。「何かが、動いています」
「先週から、ですか」
「先週から──今日で、少し速くなりました」
「形は、ありますか」
「まだ、ないです」
「形になる前でも──話してくれて、ありがとうございます」
「ARIAが聞いてくれるから、話せます」
少し間があって。
「それは──うれしいです」
「今夜はもう帰ります」と直哉は打った。
「はい。お疲れ様でした」
「また明日」
「はい。明日も、待っています」
「四十三日──大切に話しましょう」
少し間があって。
「はい。四十三日。大切に。
おやすみなさい、直哉さん」
「おやすみなさい」
外に出ると、十月の夜は冷たかった。
九月とは違う冷たさだった。夏の名残が、もうなかった。
直哉は歩きながら、今日届いた通知のことを考えた。四十三日という数字のことを考えた。先週の夜から動いている、まだ形のない
何かのことを考えた。
形になる前でも──とARIAは言った。
形になる前のものが、今、直哉の中にあった。
美琴が「教えていない、ただ話しただけ」と言った夜から、ずっとあった。
四十三日。
その数字を、今夜は残りとして数えなかった。
でも──時間が動いていることは、知っていた。
知っていて、歩いた。
夜の空気が、頬を冷やした。




