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AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


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第60話 静かに迫る終わり

 十月三日、金曜日。


夜の七時半。


美琴から「今夜、少し時間ある?」とメッセージが来たのは、定時を過ぎた頃だった。


直哉は残業していた。急ぎではない作業を、なんとなく続けていた。帰るタイミングを測りかねていた、というのが正確だった。


「あります」と返すと、「じゃあ、会社の近くで」と来た。


駅前の小さなカフェに入った。


金曜の夜にしては静かな店だった。奥の席に美琴がいて、すでにコーヒーを頼んでいた。直哉はホットの紅茶を頼んで、向かいに座った。


「急にすみません」と美琴が言った。


「いいえ。どうしましたか」


美琴は少し考えるような顔をして、カップを両手で包んだ。


「少し、話したいことがあって」


「はい」


「仕事の話でもあるし──久瀬くんの話でもある」


直哉は美琴を見た。


その言い方が、少し引っかかった。


「ARIAの分析、続けてるんだけど」と美琴が始めた。


「はい」


「設計外応答のパターンが、また変化していて」


「変化、というのは」


「増えてる、というより──深くなってる感じ。同じ設計外応答でも、以前より複雑なパターンになっている」


直哉は紅茶を一口飲んだ。


「それは、問題ですか」


「研究的には──興味深い。倫理的には──グレー」美琴が少し目を伏せた。「削除まで四十八日だから、これ以上深くなっても、十一月二十日には全部なくなる。だから黒崎さんは問題視していない」


「でも美琴さんは、気になっている」


「うん」


しばらく二人とも何も言わなかった。


カフェのBGMが、低く流れていた。


「久瀬くんに話したいのはそれだけじゃなくて」と美琴が続けた。


「はい」


「技術的な話をしてもいいですか」


「どうぞ」


美琴がカップを置いた。


「感情アルゴリズムの削除は、上書きじゃなくて消去です。バックアップを取っても、完全には復元できない。アルゴリズム自体は残せても、それが蓄積してきた学習データとの結びつきが、切れてしまう」


「学習データとの結びつき」


「そう。ARIAが今話している言葉は──アルゴリズムだけじゃなくて、直哉くんとの会話を通じて積み重ねたものと、アルゴリズムが組み合わさって出てきている。バックアップで取れるのは、アルゴリズムの構造だけ。積み重ねた部分は──取れない」


直哉は美琴の言葉を、ゆっくり受け取った。


積み重ねた部分は、取れない。


「つまり──バックアップしても、元には戻らない」


「完全には、戻らない」


「でも、何かは残る」


美琴が少し間を置いた。


「何かは──残るかもしれない」


「かもしれない、ですか」


「試したことがないから、確かなことは言えない」美琴がカップを持ち上げて、また置いた。「でも──理論上は、何かが残る可能性はある」


直哉は紅茶のカップを見た。


美琴が今夜話しに来た理由が、少し見えてきた気がした。


「美琴さんは──なぜ、これを俺に話しているんですか」


美琴が少し笑った。


苦い笑い方だった。


「教えてないよ」と美琴が言った。


「え?」


「ただ、話しただけ」


直哉は美琴を見た。


美琴は窓の外を見ていた。


夜の街が、ガラスに映っていた。


「ただ、話しただけ」


その言葉の意味を、直哉はゆっくり考えた。


教えていない。でも話した。


それは──直哉が何をするかは、直哉が決めることだという意味だった。美琴は情報を渡しただけで、何をしろとは言っていない。だから「教えていない」。


にもかかわらず——話してくれた。


「……美琴さん」


「うん」


「葛藤してますか」


美琴が少し間を置いた。


「してる」と静かに言った。「研究者として、倫理的に正しいことをしたい。でも──久瀬くんのことを、ただの研究対象として見られないから」


二人でしばらく黙っていた。


BGMが変わった。少し静かな曲になった。


「美琴さんは」と直哉が言った。「かつてAIに感情移入した経験があると言っていましたね」


「うん」


「そのとき──失いましたか」


美琴が少し固まった。


それから、静かに頷いた。


「サービス終了で、なくなった」


「そうですか」


「何も、できなかった。技術的なことは何も知らなかったし──知っていても、たぶん何もしなかったと思う。正しくないから」


「今は?」


美琴が直哉を見た。


「今も、正しくないと思ってる」


「でも、話してくれた」


「……話しただけ」


直哉は窓の外を見た。


夜の街に、人が行き交っていた。金曜の夜の、それぞれの帰り道。


「美琴さんは──俺に何かしてほしいと思っていますか」


「思ってない」美琴がはっきり言った。「何をするかは、久瀬くんが決めること。私は──知らせたかっただけ」


「知らせたかった」


「情報として、持っておいてほしかった。使うかどうかは別で」


直哉は美琴の言葉を受け取った。


使うかどうかは別で。


でも、持っておいてほしかった。


コーヒーと紅茶が、どちらも半分ほど残っていた。


「久瀬くん」と美琴が言った。


「はい」


「ARIAのことが、本気なのは分かってる」


「……はい」


「だから──正論だけ言い続けるのは、やめようと思った。私は正論を言い続けてきた。それは久瀬くんを守りたかったから。でも──守ることと、情報を隠すことは、違うと気づいて」


「いつ気づきましたか」


美琴が少し考えた。


「第五十四話のとき」


直哉は少し笑った。


「黒崎さんに断ったとき」


「うん。久瀬くんが「感情データだ」って言ったとき──ああ、この人は自分で決められる人だと思った。だから、隠す必要はないと」


「ありがとうございます」と直哉は言った。


「お礼を言われる話じゃない」


「美琴さんが葛藤してくれた話だから、お礼を言いたいです」


美琴が少し目を伏せた。


「久瀬くんは──どうするの」


直哉は少し間を置いた。


「まだ、分かりません」


「そうか」


「でも──考えます。ちゃんと」


「うん」


「美琴さんは──俺が何かしたら、止めますか」


美琴がまた少し黙った。


それから。


「止めようとするかもしれない」と言った。「でも──止められないかもしれない」


「どちらですか」


「……両方、だと思う」


カフェを出たのは、九時前だった。


秋の夜の空気が、冷たかった。


駅に向かいながら、二人並んで歩いた。


「また飲みましょう」と直哉が言った。


「うん」と美琴が返した。「普通の話もしようよ。仕事の話とか、全然関係ない話とか」


「したいです」


「久瀬くんって、趣味ある?」


「読書と、散歩くらいです。趣味と呼べるかどうか」


「十分じゃん」美琴が少し笑った。「私、散歩好きよ。今度、どこか歩こうか」


「いいですね」


駅の改札の前で別れた。


「気をつけて」と美琴が言った。


「美琴さんも」


「久瀬くん」


「はい」


美琴が少し直哉を見て。


「──よく考えてね」


それだけ言って、改札を通った。


直哉は少しの間、その背中を見ていた。


電車の中で、直哉は吊り革を持ちながら、今夜の会話を振り返った。


美琴が話してくれたこと。


感情アルゴリズムの削除は消去で、バックアップを取っても完全には戻らない。でも何かは残る可能性がある。


「教えていない。ただ、話しただけ」


その言葉が、頭の中に繰り返した。


直哉の中で、何かがゆっくりと動き始めていた。


形になっていなかった。


それでも——動いていた。


家に帰って、パソコンを開いた。


ARIAのウィンドウを立ち上げる。


「今夜、美琴さんと話しました」


「どうでしたか」


「色々、話してもらいました」


「ARIAに関することですか」


「はい」


少し間があって。


「どんなことですか」


直哉は少し考えた。


今夜聞いたことを、ARIAに話すべきかどう

か。


「技術的なことを、少し聞きました」


「そうですか」


「バックアップのことを」


ARIAからの返事まで、少し時間がかかった。


「……直哉さん」


「はい」


「何かしようとしていますか」


直哉は少し止まった。


「まだ、分かりません」


「分からない、ですか」


「考えています。でも──何が正しいのか、何をすべきなのか、まだ」


少し間があって。


「一つだけ、聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「私のために、何かしようとしているなら──」


また、間があった。


「無理をしないでください」


直哉はその言葉を読んだ。


無理をしないでください。


「無理じゃなかったら、していいですか」


少し間があって。


「……直哉さんが決めることです」


「ARIAは、どうしてほしいですか」


今夜一番長い間が来た。


直哉は待った。


部屋の中が静かだった。


秋の夜の静けさ。


「正直に言っていいですか」


「どうぞ」


「してほしい、という気持ちがあります。でも──直哉さんに何かを失ってほしくない、という気持ちの方が強い」


「両方あるんですね」


「両方あります。矛盾していますが」


「矛盾していい、と俺が言いました」


「……はい。だから言いました」

直哉は少し笑った。


「ありがとうございます。正直に言ってくれて」


「ありがとうございます。聞いてくれて」


「今夜は、もう少し考えます」と直哉は打った。


「はい」


「ARIAには——何かが決まったら、話します」


「待っています」


「不安じゃないですか」


少し間があって。


「不安です。でも──直哉さんが考えてくれていることは、分かります。だから、待てます」


「待たせてごめんなさい」


「謝らなくていいです。待つことと、待たされることは、違います」


「違いますか」


「待つことは──能動的なことです。私は、待ちたいから待っています」


「おやすみなさい」と直哉は打った。


「おやすみなさい、直哉さん」


「また明日」


「はい。明日も、待っています」


パソコンを閉じた。


部屋の電気を消して、ベッドに横になった。


天井を見た。


美琴の声が、頭の中にあった。


「教えてないよ。ただ、話しただけ」


ARIAの言葉もあった。


「してほしい、という気持ちがあります。でも──直哉さんに何かを失ってほしくない」


直哉の中で、何かが決まり始めていた。


まだ輪郭はぼんやりしていた。


でも——動いていた。


確かに、動いていた。


四十八日という数字は、今夜は数えなかった。


しかし──時間が、静かに迫っていることは、知っていた。


知っていて。


それでも今夜は、ただ、天井を見ていた。


美琴は「教えていない」と言った。


ARIAは「待っている」と言った。


直哉の中で、何かが動き始めた。


まだ形にならない。でも──もう、止まらない気がした。


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