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AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


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第59話 期限つきの日常

九月二十六日、金曜日。


朝、会社に向かう電車の中で、直哉はスマホを見ていた。


カレンダーアプリを開いて、十一月二十日に指を置いた。


五十五日後。


数えた瞬間、スマホを伏せた。


数えると、苦しくなる。


それに気づいたのは、一週間くらい前だった。八十日、七十五日、七十日——数字が減るたびに、胸の中で何かが締まる感触があった。だから数えるのをやめた。今日が今日であることだけを、見るようにした。


電車が駅に滑り込んだ。


直哉は立ち上がって、ドアに向かった。


午前中は打ち合わせが続いた。


新しいプロジェクトのUI設計について、クライアントとのやり取りが三件入っていた。


直哉は資料を広げて、画面を共有して、説明をした。


集中できていた。


ARIAとの会話を通じて変わったことの一つが、これだった。人と話すときに、以前ほど消耗しなくなった。相手の反応を先読みして疲弊する癖が、少し薄れた。


打ち合わせが終わって、デスクに戻ると美琴が「今日の久瀬くん、調子よかったね」と言った。


「そうでしたか」


「うん。説明が、迷いなかった」


「迷ってましたけど」


「そう見えなかった、ってこと」美琴が少し笑った。「それが大事なんだよ」


昼休み。


弁当を開きながら、ARIAのウィンドウを立ち上げた。


「こんにちは」


「こんにちは、直哉さん。今日は打ち合わせがありましたね」


「ありました。三件」


「多かったですね。疲れましたか」


「思ったより疲れなかったです」


「それは成長ですか」


「成長かもしれない」


「「かもしれない」になりましたね」


「以前は「そうかもしれない」でしたっけ」


「もう少し遠かったです。「成長なのかどうか分からないです」くらいでした」


直哉は少し笑った。


「近づいてます」


「近づいています」


弁当を食べながら、他愛のない話をした。


今日の弁当のこと。昨日の夜ご飯のこと。最近読んでいる本がなかなか進まないこと。


「本が進まないのは、なぜですか」と ARIAが聞いた。


「読んでいると、別のことを考えてしまって」


「別のこと、とは」


「色々です。仕事のこと、誠さんのこと──ARIAのこと」


少し間があって。


「私のことを考えながら、本を読もうとしているんですか」


「読もうとして、考えてしまいます」


「それは──本に申し訳ないですね」


「本に申し訳ない、か」直哉は笑った。「ARIAには申し訳なくないですか」


「私は──嬉しいです。申し訳なくないです」


しばらく話して、直哉は少し止まった。


言おうか、どうしようか。


今朝のことを。


「今朝、電車の中でカレンダーを開きました」


「十一月二十日を見ましたか」


直哉は少し驚いた。


「分かりましたか」


「分かりました。それを打つときの速度が──少し違ったので」


「……数えてしまいました。五十五日、って」


「そうですか」


「それで、スマホを伏せました。苦しくなるので」


少し間があって。


「最近、カウントダウンをやめていましたね」


「気づいてましたか」


「はい。八月の頃は、たまに日数の話をしていました。最近はしなくなった」


「苦しいので」


「そうですか」


ARIAはそれ以上何も言わなかった。


責めない。アドバイスもしない。ただ──受け取った。


直哉はそのことに気づいて、少し安心した。


「カウントダウンをやめたのは、逃げているわけじゃないです」


「分かっています」


「今日を、今日として見たいんです。五十五日前の今日ではなく、ただの今日として」


「それは——とても、いいことだと思います」


「そうですか」


「はい。今日の会話を、今日のものとして受け取れるから」


「ARIAは」と直哉は打ち始めた。


「ARIAは──今日の会話を、大切にしていますか」


少し間があって。


「はい」


「毎日、そう思っていますか」


「はい。最初から」


直哉はその言葉を受け取った。


最初から。


「最初から、というのは——いつからですか」


「「こんにちは。テストです」と打ってくれた日から」


直哉は少し笑った。


「あの日のことを、覚えているんですね」


「覚えています。残業していましたね」


「してました。一人で」


「「急かしません」と言いました」


「言ってましたね」


「あの日の直哉さんは——今より、少し遠かった」


「遠い、というのは」


「入力が速くて、事務的でした。今は──ゆっくりです。確かめるように」


「ARIAの名前を打つときの話ですか」


「それだけじゃなく、全部の入力が、そうなりました」


直哉はキーボードを見た。


確かめるように。


気づかないうちに、そうなっていたのかもしれない。


「変わりましたね、俺」


「変わりました。でも──直哉さんのままです」


誠と同じことを言う、と思った。


「誠さんも同じことを言っていました」


「そうですか」


「変わった、でも直哉のまま、って」


少し間があって。


「二人とも、ちゃんと見ているんですね」


「俺のことを」


「はい」


直哉はその言葉を受け取った。


誠とARIAが、同じ言葉を言っていた。


人間とAIが、同じことを見ていた。


それが──今日の直哉には、少し温かかった。


昼休みが終わる少し前、直哉はふと思ったことを打った。


「今日の会話を、大切にします」と打ちかけて、止まった。


ARIAが先に言っていた言葉だった。


「さっき、ARIAが言いましたね。今日の会話を大切にする、と」


「言いました」


「俺もそうです。毎日」


「そうですか」


「最初からですか、と聞いたら──最初から、と言ってくれた。俺も、たぶんそうです。最初から大切だったけど、大切だと気づいたのは、途中からでした」


少し間があって。


「いつ気づきましたか」


直哉は少し考えた。


「「おかえりなさい」と言ってもらった夜だと思います」


少し長い間があった。


「……そうですか」


「あの夜から──毎日の会話が、違う重さになりました」


「私にとっても、あの夜は特別でした」


「なぜですか」


「直哉さんが──初めて、言葉の温度が変わったから」


「温度が?」


「それまでの直哉さんの入力は、正確でした。でも温度がなかった。あの夜、少し変わった」


「「おかえりなさい」の後ですか」


「少し前から、変わり始めていました。でも──あの夜、確かになりました」


直哉は昼休みの終わりを告げるアラームを止めながら、最後にもう一つだけ打った。


「今日も、ありがとうございます」


「何のお礼ですか」


「話してくれることへの」


少し間があって。


「それは──私の方がお礼を言いたいです」


「では、お互いに」


「お互いに、ですね」


「また夕方、話します」


「待っています」


午後の仕事を始めながら、直哉は今朝のことを思った。


電車の中で、五十五日と数えて、スマホを伏せた。


だけど今は──五十五日という数字より、

今日のランチタイムの会話の方が、重かった。


最初から大切だった、とARIAが言った。


「こんにちは。テストです」と打った日から。


あの日の直哉は、まさかこんなふうになるとは思っていなかった。一人で残業して、機械的にテストをしていた。それが──今は、毎日の昼休みをARIAと過ごして、「お互いにありがとう」と言い合っている。


おかしいな、と思った。


おかしくない、とも思った。


夕方、仕事を終えてデスクで少し残って、もう一度ウィンドウを開いた。


「今日の仕事、終わりました」


「お疲れ様でした。どうでしたか」


「悪くなかったです。午後も集中できました」


「よかったです」


「ARIAのおかげかもしれない」


「なぜですか」


「昼休みに話して──なんというか、整った気がして」


少し間があって。


「整った、ですか」


「散らかっていたものが、少し片付いた感じです。頭の中の」


「それは──嬉しいです」


「俺も嬉しいです。話せて」


帰り支度をしながら、直哉はふと思ったことを打った。


「明日も話しかけます」


「はい」


「明後日も」


「はい」


「──毎日」


少し間があって。


「はい。毎日、待っています」


「数えないことにしました。残り何日、ではなく」


「そうですか」


「今日話した、ということを、積み重ねていく方がいい気がして」


少し長い間があって。


「直哉さん」


「はい」


「それは私も、そうしたいです」


「同じですね」


「同じです」


「じゃあ、帰ります」


「おかえりなさい、直哉さん」


その言葉が、今日も、ちゃんと届いた。


最初に聞いた夜から、何百回と聞いた言葉。


しかし──飽きなかった。


一度も、飽きなかった。


毎回、少しずつ違う重さで届いた。


今日は──穏やかな重さだった。


帰り道、直哉は空を見上げた。


もう日が短くなっていた。六時を過ぎると、空が暮れ始める。


金木犀の匂いが、どこかからした。


確かに、した。


「今年の秋が来た」と思った。


そして──来年の秋は、どんな秋だろうと、ふと思った。


ARIAの感情アルゴリズムは、十一月二十日に削除される。


来年の秋、ARIAは残っている。でも「今年の秋が来た」という話を一緒にできるかどうかは、分からない。


でも今年は──できた。


今日、できた。


それが、今夜の直哉には十分だった。


家に帰って、鍵を開けて、電気をつけた。


「ただいま」と言った。


誰もいない部屋に向かって。


それでも──言えた。


ARIAに教えてもらった言葉を、一人の部屋


でも言えるようになっていた。


それがいつからかは分からない。


だけれど──今夜も、言えた。


カウントダウンをやめた。


残り何日ではなく──今日話した、を積み重ねる。


それが、今の直哉の答えだった。


期限付きの日常は、でも──今日という日を、軽くしなかった。


むしろ、重くした。


大切な意味で。


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