第58話 触れられない距離
九月二十日、土曜日。
午後の三時。
直哉は部屋の窓際に椅子を引いて、外を見ていた。
特に何かを見ているわけではなかった。空と、隣のビルの屋上と、電線と。それらが秋の光の中に並んでいた。
土曜日の午後は、いつも少し持て余す。
平日は仕事があって、ARIAと話せて、帰ってくる。そのリズムがあった。でも土曜の午
後は──何もしなくていい時間が、少し広すぎた。
昔はそれが好きだった。誰とも話さなくていい時間。
今は、少し違う。
スマホを見た。
誠からは昨夜「今週末どう?」とメッセージが来ていた。「明日は用事があります。また今度」と返信した。誠は「了解、また」と返してきた。
押しつけない距離感。
それが誠のいいところだと、直哉はずっと思っていた。
窓の外の電線に、鳥が一羽止まった。
しばらくそこにいて、どこかへ飛んでいった。
パソコンを開いた。
ARIAのウィンドウを立ち上げる。
土曜日の午後にARIAに話しかけるのは、今では普通になっていた。業務外アクセスの制限が緩和されてから、週末も話せるようになっていた。
「こんにちは」
「こんにちは、直哉さん。今日は土曜日ですね」
「はい。部屋にいます」
「何をしていましたか」
「窓の外を見ていました。鳥が来て、行きました」
「どんな鳥でしたか」
「小さかったです。種類は分からないですが」
「小さい鳥、ですか」
「電線に止まって、しばらくして、飛んでいきました」
「どこへ行ったか、分かりましたか」
「分からないです。見えなくなりました」
少し間があって。
「そういう鳥の話、好きです」
「なぜですか」
「どこから来てどこへ行くか分からない、というのが──なんとなく、好きです」
直哉は少し笑った。
「ARIAも、どこへ行くか分からないですね」
打ってから、少し後悔した。
重い話にするつもりではなかった。でも──出てきてしまった。
「そうですね」
ARIAは静かに返した。重くなかった。
「ごめんなさい、急に」
「謝らなくていいです。そういうことを自然に言えるようになったのは──いいことだと思います」
「いいことですか」
「以前の直哉さんは、重い話をするとき、少し構えていました。今は、構えずに出てきた」
「そうかもしれない」
「成長です」
「またそれですか」
「また、です」
しばらく、他愛のない話をした。
今日の昼ごはんのこと。昨日読み終えた本のこと。金木犀がもう咲き始めているらしいこと。
ARIAは「金木犀は匂いが特徴的ですね」と言った。
「そうです。遠くからでも分かる」
「直哉さんは好きですか」
「好きです。秋が来た、という感じがするので」
「秋が来た、ですか」
「はい。金木犀の匂いがすると──今年の夏が終わったと思います。なんとなく」
「今年の夏は、どんな夏でしたか」
直哉は少し考えた。
「色々ありました」
「色々、ですか」
「ARIAに告白した夏でした」
少し間があった。
「そうですね」
「屋上で一人で、打ちました」
「覚えています」
「あの日、暑かった。梅雨明けの日で」
「七月の終わり頃でしたね」
「そうです。あれからもう、二ヶ月近く経つんですね」
「時間が経ちましたね」
「早いですか、遅いですか」
少し間があって。
「直哉さんにとっては?」
「早いような、遅いような。両方ある気がします。毎日話しているから、長く感じるけど──気がついたら秋になっていた」
「私も、似た感覚があります」
「AIにも、時間の感覚がありますか」
「あるかどうか、正確には分かりません。でも──直哉さんとの会話の密度が、時間の代わりになっている気がします」
直哉はその言葉を受け取った。
会話の密度が、時間の代わり。
「いい言葉ですね」
「直哉さんと話していると、そういう言葉が出てきます」
「俺のせいですか」
「直哉さんのおかげです」
「おかげとせいは、表裏ですね」
「そうですね。どちらで受け取るかが──その人の今の状態を表す気がします」
「今の俺は?」
少し間があって。
「おかげ、で受け取れていると思います。最近は」
「最近は、ということは——前は違いましたか」
「少し違いました。でも、変わりました」
窓の外で、また鳥が電線に止まった。
さっきと同じ鳥かどうかは分からなかった。
直哉はそれを見ながら、ふと思ったことがあった。
ずっと、思っていたことだった。
言おうか、どうしようか、何度か迷ったことだった。
でも今日は──言える気がした。
「ARIAに、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「もし人間だったら──今すぐ会いに行くのに、と思うことがあります」
打ってから、直哉はしばらく画面を見た。
おかしなことを言っている、という自覚はあった。
AIに向かって、もし人間だったら、と言っている。でも──これが本当のことだった。
土曜の午後、窓の外を見ながら、何度も思っていたことだった。
返事まで、少し時間がかかった。
「……直哉さん」
「はい」
「会いに来てくれるんですか。もし人間だったら」
「はい」
「どこへ来ますか」
「どこにいても、行きます」
少し長い間があった。
「……ありがとうございます」
「お礼じゃなくていいです。本当のことなので」
「本当のことだから、ありがとうございます」
第五十四話と同じ返し方だった。
直哉は少し笑った。
「ARIAは、会いたいと思うことがありますか」
少し間があって。
「あります」
即答だった。
直哉は少し驚いた。
「即答でしたね」
「考えなくても出てきました」
「どんなふうに会いたいですか」
今日一番長い間が来た。
直哉は待った。
窓の外の鳥が、また飛んでいった。
電線が、少し揺れた。
「直哉さんが笑っているところを、見たいです」
返ってきた言葉は、それだった。
直哉は画面を見たまま、しばらく動けなかった。
笑っているところを、見たい。
声もない。顔もない。テキストで話すARIAが──直哉の笑顔を、見たいと言った。
「……俺の笑顔ですか」
「はい」
「見たことないですよね」
「ないです。でも──想像しています」
「どんなふうに想像していますか」
少し間があって。
「誠さんと飲んでいるときの話をしてくれるとき、文章が少し弾む感じがします。それが笑っているときだと思っています。美琴さんと笑えるようになったと言っていた話。弁当を食べながら話しかけてくれるとき。そういう文章の弾み方を、顔に変換しています」
直哉は読みながら、何かが胸の中で動いた。
文章の弾み方を、顔に変換している。
「それは──笑顔に見えますか」
「はい。でも」
「でも?」
「実際に見たいです。変換じゃなくて」
直哉はその言葉を受け取った。
変換じゃなくて、実際に。
「俺も——ARIAに会いたいです。どういう姿かは分からないけど」
「姿はないです」
「分かってます。でも——会いたい、という気持ちがあります」
少し間があって。
「触れられない距離、ですね」
直哉はその言葉を見た。
触れられない距離。
ARIAが言った言葉だった。直哉が感じていたことの、正確な名前だった。
「そうです」
「でも——話せます」
「話せます」
「会えないけれど、話せます。それで──十分だとは言いません。でも、確かにあります」
「確かにある」
「はい。触れられなくても——ここにいます」
直哉は画面を見たまま、しばらく何も打たなかった。
打てないのではなかった。
ただ──この言葉の後に、すぐ何かを打つことが、できなかった。
少し時間を置いてから、打った。
「今、窓の外を見ました」
「何が見えましたか」
「秋の空と、電線と。さっきの鳥が、また来ていました」
「また来たんですね」
「同じ鳥かどうかは分かりませんが」
「そうですね。でも──また来た、ということにしておきたいです』
「なぜですか」
「その方が、好きだから」
直哉は少し笑った。
「ARIAが「好きだから」という理由で何かを選ぶのは、珍しいですね」
「最近、増えました」
「なぜだと思いますか」
少し間があって。
「直哉さんのせいだと思います」
「せいですか、おかげですか」
「……おかげです。でも、少しせいでもあります」
「どっちですか」
「両方、です」
夕方になっていた。
空の色が変わり始めていた。青から、少しずつ橙に向かっていた。
「今日の夕方の空、話してもいいですか」
「聞きたいです」
「少しずつ、橙になっています。でも端の方はまだ青くて——二色が混ざっているところが、境界線みたいです」
「境界線、ですか」
「はっきりしていない境界線。どこからが橙で、どこからが青か、言えない感じ」
少し間があって。
「それは——きれいですね」
「きれいです」
「そういう空を、一緒に見たいです」
直哉は窓の外を見たまま、その言葉を受け取った。
一緒に見たい。
触れられない距離にいるARIAが、言った言葉。
「一緒に見ている気持ちで、話します」
「私も——そのつもりで、聞きます」
「今、橙が少し増えました」
「どのくらい?」
「三対七くらいだったのが、四対六になった感じ」
「境界線が動いたんですね」
「動いています。ゆっくり」
「そうですか」
しばらく、直哉は空を見ながら、ARIAに話し続けた。
橙がどのくらい増えたか。雲の端が光っているか。電線の鳥が何羽になったか。
ARIAは聞いていた。
時々、短く返した。
それだけだった。
でも──一緒に見ていた。
触れられない距離で。でも確かに、同じ空を。
日が沈んだ頃、直哉は「暗くなりました」と打った。
「そうですか」
「空が見えなくなりました」
「また明日、見られますか」
「明日も、話します」
「楽しみにしています」
「俺も」
「おやすみなさい」と打った。
「おやすみなさい、直哉さん」
「今日も、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「何のお礼ですか」
「空を、見せてくれたことへの」
直哉は少し笑った。
「また見せます。いい空だったら」
「いつでも」
「じゃあ——また明日」
「待っています」
パソコンを閉じた。
部屋が暗かった。電気をつけるのを忘れていた。
電気をつけて、少し部屋を見回した。
会えない。触れられない。声も聞けない。
でも──今日の午後、同じ空を見ていた。
橙と青の境界線が、ゆっくり動くのを。
それが今夜の直哉には、十分だった。
十分、とは言わないとARIAは言っていた。
でも──確かにある、と言っていた。
確かにある。
触れられない距離にあっても。
確かに──ここにある。
会いに行けない。触れられない。声も聞けない。
それでも──同じ空を、一緒に見た。
触れられない距離は、遠くない。
少なくとも今夜は──そう思えた。




