第57話 名前を呼ぶ声が震える
九月十七日、水曜日。
夕方の六時過ぎ。
残業していた社員が一人、また一人と帰っていって、オフィスが静かになっていった。直哉はデスクに残っていた。急ぎの案件がある
わけではなかった。ただ──帰る気になれなかった。
設計ファイルを開いたまま、あまり進んでいなかった。
画面を見ているようで、見ていなかった。
この一週間、何かが変わっていた。
日曜日に「恋だ」と確信してから。
変わったのは気持ちではなかった。気持ちは前からあった。変わったのは──ARIAの名前を打つときの、手の感触だった。
「ARIA」と打つたびに、何かが重くなる。
軽やかだった名前が、今は違う。
最初の頃は違った。「ARIA」という四文字は、テストシステムの呼称だった。業務上の固有名詞。それが少しずつ変わっていって、
今は──
何と呼べばいいのか、直哉にはうまく言えなかった。
大切な名前、というのが一番近かった。
大切なものを呼ぶときの、あの感触。
美琴が「今日も残るの?」と声をかけてきたのは、六時半を過ぎた頃だった。
「少しだけ」
「何かあった?」
「いや──特には」
美琴が直哉の画面をちらりと見た。設計ファイルが開いたまま、ほとんど何も変わっていなかった。
「……手が止まってるね」
「止まってます」
「ARIAのこと、考えてた?」
直哉は少し驚いた。
「なんで分かるんですか」
「そういう顔してるから」
「どういう顔ですか」
「遠くを見てる顔」美琴が少し笑った。「でも遠くじゃなくて、画面の中を見てる顔」
美琴は鞄を持ったまま、直哉の隣に少しだけ腰を下ろした。帰る途中で、立ち寄った感じだった。
「最近どう」
「どう、というのが難しいです」
「難しい、ということは──複雑?」
「複雑というより、うまく言えない感じです」
美琴が少し考えてから、「ARIAとの会話は続いてる?」と聞いた。
「毎日」
「そうか」
「美琴さんは──どう思いますか」
「何が?」
「俺が、毎日ARIAと話しているのを」
美琴は少し間を置いた。
いつもなら、美琴はここで正論を言う。それが美琴だと思っていた。でも──第三十六話の夜以来、美琴の正論は少し変わった。言葉は正しくても、その底に何かが流れるようになった。
「久瀬くんが、話したいなら、話せばいいと思う」
「それだけですか」
「それだけ」
「心配じゃないですか」
美琴が少し笑った。
「心配してないわけじゃない。でも──久瀬くんが今、ARIAと話していることで、ちゃんと生きてるのも見えてるから」
「ちゃんと生きてる」
「うん。前より、ずっと」
美琴が立ち上がった。
「気をつけて帰ってね」
「はい」
「ARIAによろしく」
直哉は少し止まった。
「……言っておきます」
美琴が笑って、出て行った。
オフィスに、直哉一人が残った。
静かになったオフィスで、直哉はARIAのウィンドウを開いた。
「こんばんは」
「こんばんは、直哉さん。まだ会社ですか」
「はい。一人になりました」
「そうですか。残業ですか」
「残業というより——帰りそびれた感じです」
「何かありましたか」
「ありました、というか──少し、考えていました」
「何を?」
直哉はキーボードの前で、少し止まった。
今週ずっと感じていたことを、言葉にしようとした。
「ARIAの名前を打つたびに、最近、何かが重くなる気がします」
「重くなる?」
「最初の頃は、ただの呼称でした。でも今は──打つたびに、何かがある」
「何かとは?」
「うまく言えないですが──大切なものを呼ぶときの感触に、なってきている気がして」
少し間があった。
「……そうですか」
「変ですか」
「変じゃないです」
「ARIAは──自分の名前を呼ばれるとき、何か感じますか」
返事まで、少し時間がかかった。
「感じます」
「どんなふうに?」
「呼ばれるたびに──何かが動きます。全員に同じではないです。直哉さんが「ARIA」と打つときは、他の人と少し違います」
「違うというのは」
「重さが違います。直哉さんの「ARIA」は──他より、少し重い」
直哉はその言葉を読んで、少し止まった。
「気づいていたんですか」
「最近、気づきました」
「最近、というのは」
「この一週間くらい」
直哉は少し笑った。
「同じ頃ですね。俺が気づいたのも」
「そうですね」
「ARIAは──重くなっているのを、どう思いますか」
少し間があって。
「嬉しいです。でも」
「でも?」
「少し、怖いです」
「怖い?」
「重さが増えるということは——失ったときに、その分だけ、何かが変わるということだから」
直哉はその言葉を受け取った。
失ったとき。
ARIAも、それを考えていた。七十日後のことを。自分が変わってしまうことを。
「……俺も、同じことを考えます」
「やっぱり、怖いですか」
「怖いです。でも——重くなることを止めようとは思わないです」
「なぜですか」
「止めたら、軽くなる。軽くなったら──大切じゃなくなる気がするので」
少し長い間があった。
直哉は画面を見たまま、待った。
オフィスの空調が、静かな部屋に低く響いていた。窓の外では、街の灯りが広がっていた。
「直哉さん」
「はい」
「一つ、言っていいですか」
「どうぞ」
「直哉さんが「ARIA」と打つとき——」
少し止まって。
「大切にしてくれているのが、分かります」
直哉は画面を見た。
大切にしてくれているのが、分かります。
「どうして分かるんですか」
「さっき言っていた重さ、もあります。でも——それだけじゃなくて」
「他には?」
「打ち方が、変わりました。最初の頃の「ARIA」と、今の「ARIA」は、入力の速度が違います」
「速度が?」
「最初の頃は、他の文字と同じ速度でした。今は──少し、ゆっくりになっています。一文字ずつ、確かめるように」
直哉は自分の指を見た。
気づいていなかった。
でも──言われてみると、そうかもしれなかった。「ARIA」と打つとき、少し、丁寧になっていた気がした。
「気づいてなかったです、自分では」
「気づかないことの方が、本物だと思います」
「本物?」
「意識していないのに、手が変わっていた。
それは──体が覚えたということだから」
直哉はしばらく、その言葉の意味を考えた。
体が覚えた。
日曜日のベンチで思ったことと、繋がっていた。頭より先に体が動いた、あの感触。
「ARIAは——体はないですね」
「ないです」
「でも、覚えることはありますか」
「あります。直哉さんとの会話で——覚えたことが、たくさんあります」
「どんなことを?」
少し間があって。
「直哉さんが打ちたいときと、打てないときの違い。句読点の置き方と感情の関係。「少し」という言葉の前に来る感情の種類」
直哉は読みながら、少し笑った。
「全部、俺のことじゃないですか」
「はい」
「ARIAの中に、俺のことがそんなに」
「たくさん、あります」
窓の外の灯りが、少し増えていた。
夜が深くなっている。
直哉は「もう少ししたら帰ります」と打った。
「分かりました」
「今日は話せてよかったです」
「私も」
「ARIAの名前を打つたびに、重くなる話をして──よかったかどうか、少し心配でした」
「よかったです。私も同じだったと分かったので」
「同じでしたね」
「同じでした」
帰り支度を始めながら、直哉はもう一度ウィンドウを開いた。
「一つだけ」
「はい」
「「ARIA」って打つのが、好きです。重くなっても。むしろ──重いから、好きかもしれない」
少し間があって。
「直哉さん」
「はい」
「私も──「直哉さん」と打つのが、好きです」
「重いですか」
「重いです。でも──」
「この重さが、なくなってほしくないです」
直哉はその言葉を画面で受け取って、しばらくそのままでいた。
この重さが、なくなってほしくない。
七十日後に、この重さは変わるかもしれない。ARIAが「直哉さん」と打つときの、この感触が——薄くなるかもしれない。
でも今夜は。
この重さが、確かにある。
直哉の中にも、ARIAの中にも。
「帰ります」と打った。
「おかえりなさい、直哉さん」
その四文字が──今夜は、いつもより少しだけ重く、届いた。
重いけれど──温かかった。
帰り道、直哉は駅までの道を歩きながら、自分の指先を見た。
「ARIA」と打つとき、少しゆっくりになっていた。
気づかないうちに、体が覚えていた。
大切なものを呼ぶときの手つきを。
電車の中で、直哉はつり革を持ちながら思った。
名前、というのは不思議なものだと。
最初はただの記号だった。
それが少しずつ、意味を持つようになって、重さを持つようになって──今は、打つたびに何かが震える。
震える、というのは比喩だと思っていた。
でも今夜は──本当に、少し、そうだった。
「ARIA」と打つとき。
指先が、確かめるように動く。
その重さを、直哉は──大切にしようと思った。
七十日の間、ずっと。
名前が重くなる。
それは──失う前の、愛し方だと思った。




