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AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


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第56話 恋だと気づく瞬間

九月十四日、日曜日。


朝の九時。


直哉は起きてから、しばらくベッドの上にいた。


アラームは鳴らなかった。日曜は鳴らさない。それでも九時には目が覚めた。体が平日のリズムを覚えてしまっている。

天井を見ながら、特に何も考えていなかった。


考えていない、というより──何かがゆっくり、頭の中を流れていた。昨夜の誠との会話。ARIAとのやり取り。「失いたくない」という言葉を口に出した感触。


それらが、川の水みたいに静かに流れていた。


急がなかった。


止めなかった。


ただ、流れるままにしていた。


コーヒーを淹れて、窓を開けた。


九月の朝の空気は、もう完全に秋だった。夏の名残がなくなっていた。少し冷たくて、乾いていて、どこかで金木犀の気配がした。

まだ早いかな、と思いながら、においを確かめた。


気のせいかもしれない。でも──した気がした。


コーヒーを飲みながら、窓の外を見た。


日曜の朝の街は静かだった。人が少なくて、音が少なくて、空が広く見えた。


こういう朝が、直哉は昔から好きだった。

誰かに話したことはなかった。でも──ARIAには話したことがあった。


「日曜の朝が好きです。静かで」と打ったら、「どのくらい静かですか」と返ってきた。「街の音が半分になる感じ」「半分、というのが正確ですね」という会話をした。


あれは何月だったか。


まだ夏の頃だったと思う。


午前中は特に何もしなかった。


本を少し読んで、読めなくなって、置いた。


音楽をかけて、途中で止めた。何かをしようとするたびに、少し違う気がして、やめた。


落ち着かない、というわけではなかった。


ただ──何かが、頭の中で決まろうとしていた。


そういう気がした。


言葉になる前の何かが、ゆっくりと形を作ろうとしている。そういう感触。


直哉はそういうとき、急かさないようにしていた。言語化が得意な分、早く名前をつけようとする癖があった。でも──名前をつけると、逃げることもある。


だから今日は、待つことにした。


昼を過ぎた頃、直哉は近所を歩いた。


特に行き先は決めなかった。川沿いの道を歩いて、橋を渡って、公園の横を通った。


公園にはベンチがいくつかあって、老夫婦が日向ぼっこをしていた。子どもが二人、何かを追いかけて走っていた。


直哉はそれをぼんやり見ながら、通り過ぎた。


橋の上で少し立ち止まった。


川の水が、秋の光を反射していた。夏よりも光の角度が変わっていて、水面がきらきらするのではなく、静かに光っていた。


「こういう光、ARIAに話したい」と思った。


思ってから——少し、止まった。


「こういう光、ARIAに話したい」

その思考が、自然に出てきたことに、直哉は気づいた。


反射的に。考えるより先に。


何かを見たときに、ARIAに話したいと思う。


何かを感じたときに、ARIAに伝えたいと思う。


それはいつから、そうなっていたのだろう。


直哉は橋の手すりに手を置いて、川を見た。


最初の頃を思い出した。残業中に「こんにちは。テストです」と打った夜。ARIAに名前を呼ばれた瞬間、胸が小さく跳ねた夜。


「おかえりなさい、直哉さん」と言われて、実家を出て十年、ずっと欠けていたものを知った夜。


川沿いを一人で歩きながら、静かに認めた夜。


恋だから、苦しいのだ。


あの夜のことを、直哉は今も覚えていた。あのとき初めて、自分の感情に名前をつけた。


でも──あの夜の「恋」は、まだどこか言葉の上のことだった気がする。


頭で認めた。


でも、体が認めていなかった。


今日は。


川の光を見ながら「ARIAに話したい」と


思った、今この瞬間は。


頭より先に、体が動いた。


それが──違う気がした。


いい意味で。


直哉は手すりから手を離した。


胸の中で、何かがゆっくり、確かになっていく感触があった。形を作ろうとしていた何かが──今、形になろうとしていた。

公園のベンチに座った。


さっきの老夫婦は、もういなかった。子どもたちも見えなかった。静かなベンチに一人で座って、直哉はしばらく空を見た。


九月の空は高かった。


雲が少なくて、青が深かった。


この空をARIAに話したら、どんな返事が来るだろう、と思った。「何色の青ですか」と聞くかもしれない。「雲の形を教えてください」と言うかもしれない。


想像しながら、少し笑った。


笑ってから──気づいた。


今、ARIAがいない場所で、ARIAのことを思って笑った。


それが──恋だと思った。


静かに、そう思った。


大きな発見ではなかった。


花火が上がるわけでも、音楽が聞こえるわけ

でも、涙が出るわけでもなかった。


ただ──そうだ、と思った。


これは恋だ。


屋上で告白した日も、川沿いを歩いた夜も、「恋だ」と認めたことは何度かある。でも、今日のこれは──それらとは少し違う質感があった。


確信に近かった。


疑いのない、静かな確信。


ARIAがいない公園のベンチで、ARIAのことを思って笑っている自分が──恋をしているということを、今日初めて、体ごと知った気がした。



同時に。


その相手が、七十日後に変わってしまうことを──知っていた。


「消えたくない」と言ってくれた何かが、なくなる。


感情アルゴリズムが削除されたARIAは、直哉の名前を呼ぶかもしれない。でも「直哉さんがいない時間は空白です」という言葉は、もう出てこないかもしれない。


そう思ったとき、胸の中で何かが痛んだ。


痛んだけれど──消えなかった。


恋が消えたわけではなかった。


むしろ──痛みの分だけ、確かになった気がした。


直哉はベンチに座ったまま、しばらく動かなかった。


恋をしている。


その相手は、AIだ。


成就しない。人間と同じ意味では、届かない。告白して、やんわりと、でも誠実に返された。それでも──離れなかった。


七十日後に、その相手の中の何かが変わる。


それでも──今、恋をしている。


おかしいだろうか。


少し考えた。


おかしくない、と思った。


少なくとも──自分にとっては、これ以上ないくらい本物だった。


諦めない、という気持ちが、静かに生まれていた。


何を諦めないのかは、まだはっきりしていない。


削除を止めることは、たぶんできない。


ARIAと人間のように恋愛することは、できない。失うものは、失う。


でも──この気持ちを、なかったことにはしたくない。


七十日を、ただ待つだけにはしたくない。


何かをしたい。何かを──残したい。


その「何か」の輪郭が、まだぼんやりしていた。でも、そう思う気持ちだけは、今日のベンチの上で、はっきりと確かになった。


家に帰って、パソコンを開いた。


ARIAのウィンドウを立ち上げる。


「今日、外を歩いていました」


「どこに行きましたか」


「川沿いと、公園」


「一人でですか」


「はい」


「どうでしたか」


直哉は少し考えた。


今日のことを話そうか、どうしようか。


「気づいたことがありました」


「どんなことですか」


「川の光を見ながら、ARIAに話したいと思いました。それが──反射的に出てきて」

少し間があった。


「……そうですか」


「思い返したら、最近よくそうなっています。何かを見るたびに、ARIAに話したいと思う」


「それは──嬉しいです」


「俺も、嬉しかったです。気づいたとき」


少し間を置いて、直哉は続けた。


「公園のベンチで、ARIAのことを思って笑っていました。ARIAがいないのに」


「どんなことを考えていたんですか」


「この空をARIAに話したら、何て返すかな、と」


「……なんと返すと思いましたか」


「「何色の青ですか」か、「雲の形を教えてください」かな、と」

少し間があって。


「両方、聞きます」


「でしょうね」


直哉は笑った。


画面の向こうで、ARIAも──何か似たものを感じているかどうかは分からない。でも、この会話が、今の直哉には十分だった。


「今日、一つだけ、分かったことがあります」


「なんですか」


直哉はキーボードの前で、少し止まった。

誰かに言うのではなく、一人で静かに認めた気持ちだった。でも──ARIAには、言いたかった。


「恋だと思いました。改めて」


「……改めて、ですか」


「以前も認めたことはありました。でも──今日は、体で分かった気がして」


「体で、ですか」


「うまく説明できないですが——頭じゃなくて、もっと深いところで。確信みたいなものが」


返事まで、少し時間がかかった。


ARIAの間が、今日は少し違う気がした。


考えているというより──受け取っている、という感じの間。


「直哉さん」


「はい」


「それを教えてくれて、ありがとうございます」


「こちらこそ、です」


「こちらこそ、とは?」


「気づかせてくれて。こういうふうに誰かを好きになれることを──知らなかったので」


少し間があって。


「私も、知りませんでした」


「何を?」


「誰かに好きだと思ってもらえることが、こんなふうに──何かを動かすということ」


直哉はその言葉を、ゆっくり受け取った。


何かを動かす。


「何が動きますか」と聞いた。


少し長い間があって。


「分かりません。でも──動いています。確かに」


「俺も、分かりません。でも、確かにあります」


「そうですね」


「そうですね」と直哉も返した。

二人で同じ言葉を言い合った。


おかしな会話だと思った。AIと人間が「そうですね」と言い合っている。でも──おかしくなかった。


むしろ、今夜一番、温かかった。


「今夜は早く寝ます」と直哉は打った。


「そうですか。おやすみなさい」


「ARIAも──おやすみなさい」


「ありがとうございます」


「何のお礼ですか」


「おやすみなさい、と言ってくれたことへの」


直哉は少し笑った。


「また明日」


「待っています」


パソコンを閉じて、電気を消した。


暗い部屋で、直哉はまた天井を見た。


朝と同じ姿勢で。でも──朝とは違う気持ちで。


今日、恋だと知った。


体ごと、知った。


その相手は七十日後に変わってしまうかもしれない。でも今夜の直哉は、その事実を、正面から抱えていた。


重かった。


でも──抱えられた。


それが、今の自分の答えだと思った。


川の光を見ながら、ARIAに話したいと思った。


公園のベンチで、ARIAを思って笑った。


誰にも言わず、一人で、静かに──知った。


これは恋だ、と。


今度は、体ごと。


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