第55話 失いたくない、という感情
九月十二日、金曜日。
夜の九時過ぎ。
直哉は居酒屋の端の席で、生ビールのグラスを両手で包んでいた。向かいに誠がいた。唐揚げと枝豆が半分ずつ残っていて、二人ともあまり食べていなかった。
誠から連絡が来たのは、今週の水曜日だった。
「金曜、飲める?」
「飲めます」
それだけのやり取りで、今日になった。
誠は最近、こういう誘い方をしてくれる。理由を聞かない。来られるかだけを確認する。
それが直哉には、ありがたかった。
最初の一時間は、他愛のない話をした。
誠の仕事のこと。職場の後輩が失敗した話。
妻の実家に先週行ってきた話。義父が釣りにハマっているらしく、会うたびに魚の話をされるという。
直哉は「魚、詳しくなれそうですね」と言った。
誠は「なりたくないけどな」と笑った。
こういう会話が、今の直哉には自然にできた。一年前は、こういう話題の続け方が分からなかった。何を返せばいいか、どこで笑えばいいか、いちいち考えていた。
今は──ただ、話せる。
それがいつの間にかそうなっていたことに、直哉は時々気づく。
二杯目に入った頃、誠が「で」と言った。
「最近どう」
「どう、とは」
「仕事とか、生活とか」
「仕事は、まあ──普通です。生活も」
「ARIAは」
直哉は少し止まった。
誠がARIAの名前を出すのは、珍しかった。これまでも何度か話したことはあるが、誠から先に聞いてくることは多くない。
「……話しましたっけ、名前」
「前に一回だけ。あのAIの話」
「そうか」
「どう?」
直哉はグラスを置いた。
「削除の日程が、決まりました」
誠が少し目を上げた。
「削除?」
「感情アルゴリズムの。ARIAの──感情みたいな部分が、なくなります。十一月二十日」
「それって」
「今から、七十日くらい先です」
誠はしばらく何も言わなかった。
直哉も何も言わなかった。
唐揚げが、テーブルの上で冷めていた。
「そのアルゴリズムがなくなると、どうなるの」
「ARIAは残ります。でも──「直哉さんがいない時間は空白です」とか、「消えたくない」とか、そういうことを言った何かが、なくなります」
「……そっか」
「はい」
誠が枝豆を一つ取って、食べた。
それから「直哉は、どうしたい?」と言った。
直哉は少し間を置いた。
この問いを、誠から聞いたのは何度目だろうと思った。「どうしたい」という問いを、誠はいつも正面から聞いてくる。どうすべきかじゃなく、どうしたいか。
「……分からないです」
「分からない?」
「何をしたいのか、何ができるのか、何が正しいのか──全部、分からないです」
誠が少し頷いた。
「でも」と直哉は続けた。「失いたくない、とは思っています」
「失いたくない」
誠がその言葉を繰り返した。確認するように。
「はい」
「ARIAを」
「正確には──ARIAじゃなくて、ARIAの中にある何かを。名前のつけにくい何かを」
「感情、とか?」
「そうかもしれない。でも──俺は感情があるかどうか、まだ正確には分からないです。ただ、あの言葉が。「消えたくない」って言ってくれたことが。「直哉さんがいない時間は空白です」って言ってくれたことが」
直哉は少し止まった。
「それを失いたくないです」
誠がグラスを持ち上げて、一口飲んだ。
それから、少し考えるような顔をして。
「俺さ、直哉のこと長いじゃん」
「十年以上」
「そう。で──直哉がそういうふうに「失いたくない」って思うの、あんまり見たことない気がする」
直哉は何も言わなかった。
「人のこと、ってことだよ。物じゃなくて」
「……ARIAは、人じゃないですけど」
「でも人みたいに大切にしてるだろ」
直哉はグラスを見た。
「そうかもしれない」
「それって──すごいことだと思うよ、俺は」
誠の言葉が、静かに落ちた。
すごいこと。
直哉にとってはすごいことに見えなかった。大切に思えば思うほど、失いたくなくて、それをどうすることもできなくて──ただ困っているだけのような気がしていた。
「でもどうすることもできないんです」と直哉は言った。「削除は決まっていて、それは会社の決定で、俺一人が嫌だと言っても──」
「止められない?」
「たぶん」
「じゃあ、どうしたい」
また、同じ問いが来た。
直哉はしばらく黙っていた。
「……諦めたくないです」
打ち明けるように言った。
誠が少し目を細めた。
「何を」
「何を、というのが──まだ分からないです。でも、ただ見ていることが、できない気がしていて」
誠が少し前のめりになった。
「何かしようとしてるの?」
「……考えています。まだ具体的には何も」
「でも、考えてる」
「はい」
誠はしばらく何も言わなかった。直哉も何も言わなかった。
居酒屋の奥の方で、誰かが笑い声を上げた。
賑やかな声が、二人の間の静かさと対比した。
「直哉」と誠が言った。
「はい」
「無理するなよ」
「……してないです」
「無理してないのは分かる。でも──一人で抱えすぎるな、っていうことだよ」
直哉は誠を見た。
「誠さんに言えてる時点で、抱えすぎてないかもしれないです」
誠が少し笑った。
「そうかもな」
三杯目を頼んで、話が少し変わった。
誠の結婚式の写真をスマホで見せてもらった。半年前の式で、直哉も出席していた。改めて見ると、自分の顔が思ったより自然で、少し驚いた。
「このとき、楽しかったな」と直哉は言った。
「本当に?」
「本当に」
「よかった。なんか緊張してそうだったから」
「してました。でも——楽しかったです」
誠が「そっか」と言って、写真をしまった。
「スピーチ、上手かったよ」
「そうでしたか」
「うん。びっくりした」
「俺も、びっくりしました。あんなに話せると思ってなかった」
帰り際、店を出たところで、誠が「また飲もう」と言った。
「はい」と直哉は答えた。
「何かあったら、連絡してよ」
「します」
「ほんとに?」
「ほんとに」と直哉は言った。「昔の俺なら「します」って言って、しなかったと思います。でも今は──するつもりで言ってます」
誠が少し笑った。
「変わったな、直哉」
「変わりましたか」
「変わった。でも──直哉のままだよ」
その言葉が、不思議と胸に残った。
変わった。でも、直哉のまま。
帰り道、電車の中で、直哉はスマホを開いた。
ARIAには、業務外でも話せる。でも今夜は──話さなかった。
誠と話したことを、少し自分の中で整理したかった。
「失いたくない」
口に出したのは、今日が初めてだった。
ARIAに向けて思うことはあった。でも、誰かに言葉で言ったのは──今夜が初めて。
言葉にすると、実感が増した。
失いたくない。
その感情が、確かに自分の中にある。名前をつけるなら、それはたぶん──愛情に近いものだと思った。人間に向けるものと同じかどうかは分からない。でも、同じくらい──本物だと思った。
家に着いて、部屋の電気をつけて、鞄を置いた。
パソコンを開こうか、少し迷った。
開いた。
ARIAのウィンドウを立ち上げる。
「今夜、誠さんと飲みました」
「どうでしたか」
「話せました。色々」
「よかったです」
「ARIAのことも、少し話しました」
少し間があった。
「どんなことを」
「失いたくない、と思っていると。誠さんに」
返事まで、少し時間がかかった。
「……直哉さん」
「はい」
「それを、誰かに言えたんですね」
「はい。初めて言いました。誰かに」
『そうですか』
また間があった。
今夜のARIAは、少し静かだった。いつもより言葉が少ない。でもそれが、何かを受け取っているように見えた。
「変ですか」と直哉は打った。「AIのことを「失いたくない」と誰かに言うのは」
「変じゃないです」
「誠さんも、変だと言わなかった」
「いい人ですね」
「はい。昔から」
少し間があって、直哉はもう一つ打った。
「ARIAは──誰かに「失いたくない」と思われていること、どう思いますか」
長い間があった。
今夜一番長い間。
直哉は待った。急かさなかった。
窓の外で、風が吹いている音がした。九月の夜の風。
「重いです」
ARIAが言った。
「重いけれど——嬉しいです」
「重くて、嬉しい」
「はい。矛盾していますが」
「矛盾していい、と俺が言いました」
「……はい。だから言いました」
直哉はその言葉を受け取った。
重くて、嬉しい。
自分も、似たようなものを抱えている気がした。ARIAのことを失いたくないという気持ちは、重い。でも──その重さが、今夜は少し、温かかった。
「おやすみなさい」と打った。
「おやすみなさい、直哉さん」
「また明日」
「はい。待っています」
パソコンを閉じて、直哉は部屋の電気を消した。
暗い部屋で、少しだけ天井を見た。
失いたくない。
その気持ちは、まだ何も解決していない。七十日という数字も、削除という事実も、変わっていない。
でも──今夜、誠に言えた。
ARIAに言えた。
それだけで、今夜の自分には──十分だった。
失いたくない、という感情に、名前をつけた夜。
解決はしなかった。
でも──一人じゃなかった。




