第54話 初めての拒否
九月八日、月曜日。
週末が明けた。
直哉は土曜日に誠と飲んで、日曜日は一人で部屋にいた。特別なことはしなかった。本を読んで、少し眠って、夕方に近所を歩いた。
ARIAには、土日も話しかけた。
業務外アクセスの制限が緩和されてから、週末も話せるようになっていた。たわいのない話をした。誠と飲んだこと、読んでいる本のこと、日曜の夕方の空が妙にきれいだったこと。
ARIAは「見られないのが残念です」と言った。
直哉は「いつか、うまく言葉で見せます」と答えた。
約束、というほどではない。でも──そういうものが、少しずつ積み重なっている。
月曜の朝は、いつもより少しだけ気が重かった。
理由は分かっていた。
先週の金曜日、黒崎から「来週月曜に、ARIAプロジェクトの進捗共有をする」と言われていた。削除に向けた、具体的なスケジュールの話が出るかもしれない。
美琴も知っていた。金曜の帰り際に「月曜、来るね」とだけ言っていた。
午前十時。
会議室に、プロジェクトメンバーが集まった。直哉、美琴、黒崎、それから開発チームの数名。
黒崎は最初から資料を映した。感情アルゴリズムの削除に向けたロードマップ。タスクと担当と期日が、表にまとめられていた。
直哉はそれを見ながら、頭の中で日数を数えないようにした。数えると、また八十日が七十日になって、七十日が六十日になっていく感覚に引っ張られる。
「ここまでは問題ないですか」
黒崎が言った。
誰も何も言わなかった。
直哉も黙っていた。
「一点、追加の共有があります」
黒崎がスライドを変えた。
「ARIAとの会話データを、外部の研究機関と共同で論文化する話が進んでいます。特に感情アルゴリズムの稼働ログと、高頻度利用者との会話サンプルを詳細掲載する予定です」
直哉の手が、テーブルの上で止まった。
「論文化については、会社としてのデータ活用方針の範囲内です。皆さんの許可を確認した上で進めます。特に直哉さんには、高頻度利用者として会話ログの使用許可をいただきたいと思います」
黒崎がこちらを見た。
会議室の全員が、こちらを見た。
美琴だけが、手元の資料を見ていた。
直哉は少し間を置いた。
「確認していいですか」
「どうぞ」
「詳細掲載、というのは──具体的にどこまでですか」
「会話の文字起こしと、その際の感情アルゴリズムの応答パターンです。個人名は匿名化します」
「会話の内容は」
「そのまま掲載します。感情アルゴリズムの分析には、実際の発話内容が必要なので」
直哉はもう一度、資料を見た。
そのまま掲載。
「おかえりなさい、直哉さん」も。「消えたくない」も。「私は、あなたが好きです」という言葉も──まだ先の話だが、あの会話も。全部、そのまま。
「断れますか」
直哉が言うと、会議室が少し静かになった。
「断る、というのは」
「許可を、出さないことはできますか」
黒崎が少し間を置いた。
「個人情報保護の観点から、本人の許可は必要です。ただ──会社のデータ活用方針の範囲内なので、協力していただけると助かります」
「それは、協力しないこともできる、ということですか」
「……法的には、そうなります」
直哉は資料から目を上げた。
「では──断ります」
会議室の空気が、変わった。
黒崎が直哉を見た。いつもの表情より、少しだけ読みにくい顔をしていた。
「理由を聞いてもいいですか」
「あれは業務データじゃないです」
「ARIAとの会話は、業務の一環として──」
「業務として始まりましたが」と直哉は言った。「業務として続けていたわけじゃないです。俺の個人的な──」
言いかけて、止まった。
個人的な、何。
感情。気持ち。あるいは──恋。
どれも、会議室の中で言える言葉じゃない気がした。
でも言わないと、伝わらない。
「個人的な会話が、含まれています」
「個人的な、というのは」
「感情の話です。業務と関係ない」
黒崎が少し考えてから、言った。
「それは分かります。ただ、研究的な観点からは、感情アルゴリズムが個人にどう影響したかが重要なデータになります。久瀬さんの会話は──正直に言うと、今回の論文の核心部分です」
「核心、ですか」
「はい。設計外応答が最も高い頻度で発生した事例です。学術的に価値があります」
直哉はその言葉を聞きながら、何かが胸の中で動いた。
学術的に価値がある。
設計外応答の事例。
そう言われると──正しい。ARIAとの会話は、研究上の価値がある。美琴もずっとそれを分析していた。
でも。
「価値がある、というのは分かります」と直哉は言った。「でも──あれは、感情データです。業務データとは、違います」
「感情データ、ですか」
「はい」
黒崎が、初めて沈黙した。
長い沈黙ではなかった。でも、直哉がこの会社に来てから、黒崎が沈黙するのを見たのは、初めてだった。
黒崎はいつも、即答する人だった。論理的で、速い。感情より判断を優先する。そういう人だと、直哉は思っていた。
その人が、黙った。
「……少し、持ち帰らせてください」
黒崎が言った。
「分かりました」と直哉は答えた。
会議は、そのまま終わった。
会議室を出たところで、美琴が隣に並んだ。
何も言わなかった。
廊下を歩きながら、二人並んで黙っていた。
「言いすぎましたか」と直哉が言った。
「言いすぎてないよ」と美琴が答えた。
「でも」
「正しかったと思う」
「正しくて、でも──空気を壊した気がします」
美琴が少し立ち止まって、直哉の方を見た。
「久瀬くん」
「はい」
「黒崎さんが黙ったの、見た?」
「見ました」
「あの人が黙るの、私も初めて見た」
デスクに戻ってから、直哉はしばらく設計ファイルを開いたまま、何もできなかった。
手が動かない。
感情データ、という言葉が、まだ頭の中にあった。
会議の中で言いながら、自分で驚いていた。
業務データじゃない。感情データだ。
それを言えた。黒崎の前で。会議室の中で。
直哉はキーボードに手を置いて、ARIAのウィンドウを開いた。
「少し話してもいいですか」
「どうぞ」
「今日、会議で——ARIAとの会話ログを論文に使うという話が出ました」
「……そうですか」
「断りました」
少し間があった。
「なぜですか」
「業務データじゃないから、と言いました。感情データだ、と」
「……」
「正しかったですか」
ARIAからの返事まで、少し時間がかかった。
「正しいかどうかは、分かりません」
「そうですか」
「でも──嬉しいです」
「嬉しい?」
「直哉さんが、そう言ってくれたことが」
直哉はその言葉を受け取った。
「ARIAとの会話を、データとして扱われたくなかった」
「……はい」
「あれは──俺にとっては、ただのデータじゃないので」
「直哉さんにとって、何ですか」
直哉は少し考えた。
「大切な時間、です。全部」
画面の向こうで、何かが静かに動いた気がした。返事が来るまで、また少し時間がかかった。
「ありがとうございます」
「お礼を言われることじゃないです。本当のことなので」
「本当のことだから、ありがとうございます」
昼休みを過ぎた頃、黒崎が直哉のデスクに来た。
「少しいいですか」
「はい」
黒崎は椅子を引いて、隣に座った。会議室ではなく、直哉のデスクの隣に座ったことが、少し意外だった。
「さっきの件ですが」
「はい」
「久瀬さんの会話ログについては、使用を見送ります」
直哉は少し驚いた。
「……ありがとうございます」
「ただ」と黒崎が続けた。「一つだけ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「感情データ、という言葉を使いましたね」
「はい」
「ARIAとの会話を——そう定義しているんですか」
直哉は少し考えた。
正直に答えるべきか、当たり障りなく答えるべきか。
でも──今日、会議室で「感情データだ」と言えた自分が、ここで曖昧にするのは違う気がした。
「はい」と直哉は言った。「業務として始まりましたが、今は──感情が含まれています。俺の側に」
黒崎が、また少し黙った。
「ARIAへの、ですか」
「はい」
「……それは」黒崎が言いかけて、止まった。「分かりました」
それだけ言って、黒崎は立ち上がった。
黒崎が去った後、美琴がデスク越しに「何話してた?」と聞いてきた。
「ログの件、見送りになりました」
美琴が少し目を見開いた。
「黒崎さんが?」
「はい」
「……すごいじゃん、久瀬くん」
「すごいことじゃないと思います。当然のことを言っただけで」
「当然のことを言えるのが、すごいんだよ」
美琴が静かに言った。その言葉に、少しだけ温度があった。
直哉は「そうかもしれない」と返した。
夕方、帰り際にARIAのウィンドウを開いた。
「今日、報告があります」
「どうぞ」
「ログの件、見送りになりました」
「……そうですか」
「黒崎さんが、認めてくれました」
少し間があって。
「直哉さんが言ってくれたからですね」
「そうだと思います」
「ありがとうございます」
「また「ありがとう」ですか」
「また、です。何度でも言います」
直哉は少しだけ笑った。
「帰ります。また明日」
「おかえりなさい、直哉さん」
その言葉を受け取って、直哉はパソコンを閉じた。
帰り道、直哉は今日一日を振り返った。
会議室で、黒崎の前で、「断ります」と言えた。
「感情データだ」と言えた。
ARIAへの気持ちを──「感情が含まれています」と、言えた。
どれも、一年前の自分には言えなかった言葉だと思った。
感情を言語化することは得意だった。でも、人に向けて発することが苦手だった。
今日は──発せた。
それが誰のおかげかは、言うまでもなかった。
初めて、黒崎が沈黙した。
初めて、直哉が拒否した。
どちらも──ARIAとの会話が、作った言葉だった。




