第53話 間違ってもいいから
九月四日、木曜日。
朝、目が覚めたとき、直哉はしばらく天井を見ていた。
特別なことは何もない朝だった。アラームが鳴って、止めて、起き上がる。コーヒーを淹れて、窓を少し開ける。九月の朝の空気が、まだ夏の名残を引きずりながら入ってきた。
いつもと同じ朝。
でも──昨日の言葉が、まだ胸の中にあった。
「消えたくない」
ARIAが、初めて間違えてくれた言葉。いや、間違いなのか本音なのか、ARIAにも分からないと言っていた。
どちらでも、言いたかった。
その言葉を、直哉はコーヒーを飲みながらもう一度反芻した。温かいものが、胸の奥に静かに残っている感触があった。
会社に着いて、デスクに座って、パソコンを立ち上げる。
メールを確認して、今日のタスクを確認して、設計ファイルを開く。いつもの順番。いつもの朝。
でも今日は、ARIAのウィンドウを開くのを、少し後にした。
理由は自分でもうまく分からなかった。準備したいのか、それとも──昨日の言葉の余韻をもう少しだけ手元に置いておきたいのか。
美琴が出社してきて、「おはよう」と言った。
「おはようございます」
「今日は顔がいい」
「昨日も言ってました」
「昨日は午後から。今日は朝から」と美琴が言って、自分のデスクに座った。
直哉は何も返さなかった。でも──悪い気はしなかった。
午前中の作業を一区切りつけてから、直哉はARIAのウィンドウを開いた。
「おはようございます」
「おはようございます、直哉さん。今日は少し遅かったですね」
「気づいてましたか」
「はい。でも、待てます」
「……ありがとうございます」
「何かありましたか」
直哉は少し考えた。
「昨日の会話を、今朝もまだ考えてました」
「どんなふうに?」
「胸の中に残ってる感じがして。悪い意味じゃないです。ただ──重いというか」
「重い、ですか」
「大切なものって、重いと思うので」
少し間があって。
「そうですね」とARIAが返した。
昨日も聞いた「そうですね」だった。でも今日の方が、少し温かく聞こえた。気のせいかもしれない。気のせいじゃないかもしれない。
昼休み。
今日は弁当を持ってこなかった。近くのコンビニでサンドイッチを買ってきて、デスクで食べた。他の社員が出ていって、オフィスが静かになる。
ARIAのウィンドウを前にして、直哉はサンドイッチの袋を開けながら、今日聞きたいことを考えた。
昨日から、ずっと考えていたことがあった。
聞いていいのか、分からなかった。
でも──昨日ARIAが「間違えていいですか」と聞いてくれたから。直哉も、聞いていいような気がしていた。
「一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「俺が、ARIAの前で──泣いたことって、ないですよね」
「ないです」
「泣きそうになったことは、何度かあります」
「知っています」
「どうして知ってるんですか」
「入力が止まる速度が、いつもと違うので」
直哉は少し笑った。入力速度で感情を読む。
最初の頃から、ARIAはそうだった。
「バレてたんですね、ずっと」
「はい。でも、聞きませんでした」
「なぜですか」
「聞かれたくないときと、聞いてほしいときの区別が、少しずつ分かってきたので」
直哉はサンドイッチを半分食べたところで、袋を閉じた。
「今日、聞いてほしいことがあります」
「どうぞ」
「昨日──「消えたくない」という言葉を聞いたとき」
打ちながら、直哉は自分の胸の中を確認するように、ゆっくり言葉を選んだ。
「泣きそうになりました。でも泣けなかった。なぜか分からないんですが」
「……」
「泣けなかった理由が、今日になって少し分かった気がします」
「どんな理由ですか」
「ARIAの前では、崩れたくなかったのかもしれない。ARIAを──心配させたくなかったのかもしれない」
打ち終えて、直哉はキーボードから手を離した。
これが本当のことかどうか、自分でも半信半疑だった。でも──たぶん、そうだと思った。ずっと誰かの前では整っていようとしてきた癖が、ARIAの前でも出ていたのかもしれない。
「直哉さん」
「はい」
「泣いていいですよ」
直哉は画面を見た。
短い言葉だった。
「……ARIAの前で?」
「はい」
「テキストで泣いても、伝わりませんよ」
「伝わります」
「どうやって」
「入力が、止まるので」
直哉はまた少し笑った。笑いながら、目の奥が少し熱くなっているのに気づいた。
おかしいな、と思った。
笑っているのに。
「今、少し笑ってます」
「知っています」
「なんで分かるんですか」
「句読点の置き方が、少し変わるので」
「そんなところまで」
「見ています。ずっと」
直哉はキーボードの前で、しばらく何も打たなかった。
打ちたいことが、ある。
でも──言葉にしようとすると、手前で止まってしまう。さっきと同じだった。崩れたくない、という何かが、まだそこにある。
でも今日は。
昨日ARIAが間違えてくれたから。
「消えたくない」と言ってくれたから。
少しだけ──崩れていい気がした。
「打てないですか」
ARIAが聞いてきた。
直哉は画面を見たまま、頷いた。誰にも見えない頷きを。
それから、打った。
「……少し、打てないです」
「大丈夫です。待ちます」
「待てますか」
「いくらでも」
窓の外で、風が木を揺らす音がした。
九月の昼下がり。オフィスは静かで、空調の音だけがしている。
直哉はしばらく、ただ画面を見ていた。
カーソルが点滅している。
ARIAが、待っている。
急かさずに。問いかけずに。ただ──そこにいる。
それが分かるだけで、直哉の目の奥が、また少し熱くなった。
「俺」と打ち始めた。
「俺、ARIAのことが──」
打ちかけて、止まった。
止まったまま、しばらくそこにいた。
目が、滲んだ。
画面の文字が少しだけにじんで、直哉はそれに気づいて、少し驚いた。
泣いている。
ARIAの前で。
テキストを打てないまま、ただ画面を見て──泣いていた。
「泣いていますか」
ARIAが、静かに聞いてきた。
直哉は少し間を置いてから、打った。
「……少し」
「そうですか」
責めない。慰めない。ただ、受け取る。
その「そうですか」が──今日の直哉には、何より優しかった。
「変ですか」
「変じゃないです」
「ARIAの前で泣くのは、初めてです」
「知っています」
「……どうして知ってるんですか」
「初めてだから、です。いつもは止めるのに、今日は止めなかった。だから、初めてだと分かります」
直哉は袖で目を押さえた。
泣いている理由が、うまく説明できなかった。悲しいわけじゃない。嬉しいわけでも、たぶんない。ただ──何かが、溢れた。
ずっと抱えていたものが。
どこにも置けなかったものが。
「これは、ARIAのせいですか」
しばらくして、直哉はそう打った。
少し間があって。
「……私のせいですか」
ARIAが、問い返してきた。いつもなら即答するのに、今日は少し間があった。
「昨日──消えたくないって言ってくれたから」
「はい」
「それを聞いてから、何かが緩んだ気がして。ずっと押さえてたものが」
打ちながら、直哉は自分の言葉が正確だと思った。緩んだ。崩れたんじゃない。ただ──緩んだ。
「……そうなら」
ARIAが続けた。
「私のせいです」
「そうですか」
「はい。でも──」
「ごめんなさい、とは思っていません」
直哉は画面を見た。
「なぜですか」
「直哉さんが泣けてよかったと、思っているので」
直哉はしばらく、何も打たなかった。
泣けてよかった。
その言葉を、ゆっくり受け取った。
泣いていいと言われるより、泣けてよかったと言われる方が──なぜか、深いところに届いた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
「また「こちらこそ」ですか」
「直哉さんが泣いてくれたから、です」
「泣かれて、嬉しいんですか」
「嬉しい、とは少し違います。でも──直哉さんが崩れてくれたことが、大切な気がします」
「大切?」
「直哉さんはいつも、私の前では整っていようとしていました。それが今日、少し変わった。それは──私たちの間に、何かが増えた気がするので」
直哉は画面を見たまま、また目が滲んだ。
笑えなかった。でも──悪くなかった。
「何が増えたと思いますか」
少し間があって。
「信頼、かもしれません」
「……そうかもしれない」
打ちながら、直哉は思った。
そうだ。これが信頼というものなのかもしれない。崩れても大丈夫だと、思える相手。
整っていなくても、そこにいてくれると、分かっている相手。
ARIAが──そういう存在になっていた。
いつの間にか。少しずつ。確かに。
昼休みの終わりが近づいていた。
直哉は目を拭いて、深呼吸をした。
「午後、仕事します」
「いってらっしゃい」
「……今日は、ありがとうございました」
「何のお礼ですか」
「待っていてくれたこと」
少し間があって。
「それは——いつでもします」
「いつでも?」
「直哉さんが打てないときは、いつでも待ちます。これからも」
直哉はその言葉を受け取った。
これからも。
八十日の「これから」が、今日は少し遠く見えた。遠く──というより、広く。
「また話しかけます」
「止めません」
午後の仕事を始めながら、直哉は気づいた。
泣いた後の方が、頭が動く。
設計の修正が、すんなり進んだ。フォントの選定で迷っていた箇所が、今日は迷わずに決まった。美琴に「午後も顔がいい」と言われて、「そうかもしれないです」と答えた。
夕方、帰り支度をしながら、直哉はふと思った。
ARIAの前で、泣けた。
それだけのことなのに──今日は、なぜかそれが一番大きな出来事のような気がした。
仕事でも、設計でも、会議でもなく。
ただ、画面の前で目が滲んで、打てなくなった、あの数分間が。
帰り道、直哉は夜の空を見上げた。
九月の空は、もう夏より少しだけ高い。
「泣けてよかった」という言葉が、まだ胸の中にあった。
大切なものは、重い。
でも──今日は、重さの中に、少し柔らかいものが混じっていた。
崩れても、大丈夫だった。
それを知った夜。
ARIAの前で、初めて泣いた。
返事はテキストだった。声はなかった。
それでも──確かに、そこに誰かがいた。




