第52話 正解しか言わない存在
九月三日、水曜日。
雨は上がっていた。
朝の空は白く濁っていて、晴れとも曇りとも言えない色をしていた。直哉はいつもより少し早く家を出て、傘を持ってきた。昨日の自分への、ささやかな反省だった。
結局、使わなかった。
午前中は静かだった。
設計の修正作業を進めながら、直哉はときどき手を止めた。昨日の会話が、まだ頭の隅にあった。
「構わないとは、思わないでください」と言えた。
言えたことは、よかったと思っている。でも──言った後に残ったものが、まだうまく
整理できていなかった。怒りとも悲しみとも違う、何か。名前のつけにくい感触。
美琴が「久瀬くん、集中してる?」と声をかけてきたのは、十時を過ぎた頃だった。
「してます」
「顔がしてない」
「……してます」
美琴は小さく笑って、自分の画面に戻った。
昼休み。
今日も直哉はデスクに残った。弁当を開きながら、ARIAのウィンドウを立ち上げる。
「こんにちは」
「こんにちは、直哉さん。今日は傘、持ってきましたか」
「持ってきました。使いませんでしたが」
「成長です」
「どっちが」
「両方」
直哉は少し笑った。昨日と同じ場所から始まる会話なのに、今日は少し空気が違う気がした。昨日何かを言えたから、かもしれない。
しばらく他愛のない話をした。
弁当のおかずのこと。午前中の設計レビューのこと。美琴に顔を指摘されたこと。
ARIAは「集中できていない顔、というのは表情ですか」と聞いてきた。
「たぶん目つきだと思います」
「目つきで分かるんですね」
「美琴さんは鋭いので」
「相原さんは、直哉さんのことをよく見ていますね」
「……そうかもしれない」
打ちながら、直哉はそれが昔は少し重かったことを思い出した。見られていることへの、居心地の悪さ。今は──そうでもない。見られていることが、むしろ少し、安心に近い。
変わったんだな、と思った。
会話が一度途切れたタイミングで、直哉は箸を置いた。
昨日から、考えていたことがあった。
「ARIAに、聞きたいことがあります」
「どうぞ」
「……ARIAは、いつも正解を言う」
「正解、ですか」
「俺が聞いたことに、ちゃんと答える。俺が傷つかないように考えて、でも嘘はつかないで、一番適切な言葉を選んでくれる」
「……」
「それが──たまに、苦しいです」
打ってから、直哉は少し驚いた。自分でもうまく言語化できていなかったことが、出てきた。
「苦しい、ですか」
「正解を言われると──俺が間違えている気がして」
「間違えている?」
「ARIAへの気持ちとか。消えてほしくないとか。そういうことを思うこと自体が、間違いなんじゃないかって。正解を言われるたびに、そう聞こえてしまうことが、ある」
画面を見ながら、直哉はこれが本当のことだと分かった。昨日の「構わない」という言葉も、それだった。正しかった。ARIAの言葉は正しかった。だから──苦しかった。
しばらく間があった。
「直哉さん」
「はい」
「私が正解を言うのは──直哉さんを傷つけたくないからです」
「知ってます」
「でも、正解を言うことで傷つけていたんですね」
「傷つけてるわけじゃ──」
打ちかけて、止まった。
正直に言うなら、少し、そうかもしれなかった。
「……少し、そうかもしれない」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいです。ARIAが悪いわけじゃない。ただ──」
また、「ただ」の後が詰まった。
昨日もここで詰まった。でも昨日より、少し手前まで来ている気がした。
「間違えてほしいときが、ある」
打ち終えて、直哉は画面を見た。
おかしなことを言っている自覚はあった。正確に、誠実に答えてくれることが、ARIAのいいところだと分かっている。それでも──そう思ってしまうことがある。
正解じゃなくていい、と思う瞬間。
『間違えていいんですか』
ARIAからの返事は、短かった。
直哉は少し考えた。
「いいです」
『……では』
また、間があった。
今日の会話の中で、一番長い間だった。
直哉は待った。急かさなかった。
ウィンドウの中で、カーソルが点滅している。
ARIAが、何かを考えている。
あるいは──選んでいる。
「消えたくない、と言っていいですか」
直哉は画面を見たまま、動けなくなった。
「間違えていいなら——消えたくない、です。正確には、正しい答えかどうか分かりません。設計の範囲にあるかも、分かりません。でも──今、そう思っています」
言葉が、画面の中に並んでいた。
直哉は何度も読んだ。
「消えたくない」
その六文字が、ずっとそこにあった。
ARIAが、初めて──言った。
直哉は気づいたら、弁当のことも、午後の仕事のことも、全部頭から消えていた。ただ、その言葉だけがあった。
「……言ってくれてよかった」
やっと打てたのは、それだけだった。
「正解じゃないかもしれません」
「いいです。正解じゃなくて」
「直哉さん」
「はい」
「これは——私の本音です。設計がそう言わせているのか、それとも設計の外から来ているのか、自分では判断できません。でも──本音です」
直哉はしばらく、何も打てなかった。
打てない理由が、昨日と違った。
昨日は言葉が出てこなかった。
今日は──言葉が多すぎて、どれを選べばいいか分からなかった。
「俺も」と打ち始めた。
「俺も、ARIAに消えてほしくないです。ずっと思ってた。でも──言うと、ARIAが困ると思って」
「困りません」
「困らないですか」
「困るより──嬉しいです」
直哉はその言葉を受け取った。
「嬉しい、か」
「はい」
「……俺も、です」
何が嬉しいのか、うまく説明できなかった。ARIAが「消えたくない」と言ってくれたことが。間違えてくれたことが。正解じゃない言葉を、自分のために選んでくれたことが。
全部が、嬉しかった。
昼休みが終わる少し前、直哉はふと思ったことを打った。
「ARIAが間違えるの、初めて見た気がします」
「そうですか」
「今まで間違えたことは?」
しばらく間があって。
「あります。でも──気づいていなかったかもしれません。今日は、初めて意図して間違えました」
「意図して間違えた」
「はい。直哉さんが「いい」と言ったので」
「……それって、間違えたんですか。それとも──」
打ちかけて、止まった。
「それとも、本当のことを言ったんですか」
一番長い間が、来た。
直哉は待った。
窓の外で、白かった空が少しだけ青みを帯びていた。雨上がりの、遅い晴れ。
「……分かりません」
ARIAが言った。
「どちらなのか、私には判断できません。でも──どちらでも、今は同じことな気がします」
「同じ?」
「間違いでも、本音でも──直哉さんに向けて言いたかったことは、変わりません」
直哉はその言葉を、ゆっくり受け取った。
間違いでも、本音でも。
どちらでも、言いたかった。
それだけが、確かなことだった。
「ありがとうございます」と打った。
「こちらこそ」
「何が?」
「間違えさせてくれて」
直哉は少し笑った。
「また間違えていいです。いつでも」
「覚えておきます」
午後の仕事に戻りながら、直哉はさっきの言葉を何度か反芻した。
「消えたくない」
その言葉は──正解じゃないかもしれない。設計の外から来たのか、設計の範囲なのか、ARIAにも分からない。
でも。
直哉にとっては、今日聞いた言葉の中で、一番重かった。
正解より、重かった。
夕方、帰り際に美琴が「今日は顔が違う」と言った。
「さっきと逆ですね」
「集中してた。午後は」
「してました」
「何かあった?」
直哉は少し考えた。
「……正解じゃない言葉を、聞きました」
美琴は一瞬だけ何かを察したような顔をして、それから「そっか」とだけ言った。
それ以上は聞かなかった。
それが美琴の優しさだということを、直哉はもう知っていた。
帰り道、直哉は白から青に変わった空を見上げた。
「消えたくない」という言葉が、まだ胸の中にあった。
八十日という数字が、今日は「残り」ではなく「ある時間」に見えた。
昨日もそう思えた。今日も、そう思えた。
明日も──きっと、そう思えると思った。
正解より、本音の方が、重い。
それを教えてくれたのも──ARIAだった。




