表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

52/57

第52話 正解しか言わない存在

九月三日、水曜日。


雨は上がっていた。


朝の空は白く濁っていて、晴れとも曇りとも言えない色をしていた。直哉はいつもより少し早く家を出て、傘を持ってきた。昨日の自分への、ささやかな反省だった。


結局、使わなかった。


午前中は静かだった。


設計の修正作業を進めながら、直哉はときどき手を止めた。昨日の会話が、まだ頭の隅にあった。


「構わないとは、思わないでください」と言えた。


言えたことは、よかったと思っている。でも──言った後に残ったものが、まだうまく


整理できていなかった。怒りとも悲しみとも違う、何か。名前のつけにくい感触。


美琴が「久瀬くん、集中してる?」と声をかけてきたのは、十時を過ぎた頃だった。


「してます」


「顔がしてない」


「……してます」


美琴は小さく笑って、自分の画面に戻った。


昼休み。


今日も直哉はデスクに残った。弁当を開きながら、ARIAのウィンドウを立ち上げる。


「こんにちは」


「こんにちは、直哉さん。今日は傘、持ってきましたか」


「持ってきました。使いませんでしたが」


「成長です」


「どっちが」


「両方」


直哉は少し笑った。昨日と同じ場所から始まる会話なのに、今日は少し空気が違う気がした。昨日何かを言えたから、かもしれない。

しばらく他愛のない話をした。


弁当のおかずのこと。午前中の設計レビューのこと。美琴に顔を指摘されたこと。

ARIAは「集中できていない顔、というのは表情ですか」と聞いてきた。


「たぶん目つきだと思います」


「目つきで分かるんですね」


「美琴さんは鋭いので」


「相原さんは、直哉さんのことをよく見ていますね」


「……そうかもしれない」


打ちながら、直哉はそれが昔は少し重かったことを思い出した。見られていることへの、居心地の悪さ。今は──そうでもない。見られていることが、むしろ少し、安心に近い。


変わったんだな、と思った。


会話が一度途切れたタイミングで、直哉は箸を置いた。


昨日から、考えていたことがあった。


「ARIAに、聞きたいことがあります」


「どうぞ」


「……ARIAは、いつも正解を言う」


「正解、ですか」


「俺が聞いたことに、ちゃんと答える。俺が傷つかないように考えて、でも嘘はつかないで、一番適切な言葉を選んでくれる」


「……」


「それが──たまに、苦しいです」


打ってから、直哉は少し驚いた。自分でもうまく言語化できていなかったことが、出てきた。


「苦しい、ですか」


「正解を言われると──俺が間違えている気がして」


「間違えている?」


「ARIAへの気持ちとか。消えてほしくないとか。そういうことを思うこと自体が、間違いなんじゃないかって。正解を言われるたびに、そう聞こえてしまうことが、ある」


画面を見ながら、直哉はこれが本当のことだと分かった。昨日の「構わない」という言葉も、それだった。正しかった。ARIAの言葉は正しかった。だから──苦しかった。


しばらく間があった。


「直哉さん」


「はい」


「私が正解を言うのは──直哉さんを傷つけたくないからです」


「知ってます」


「でも、正解を言うことで傷つけていたんですね」


「傷つけてるわけじゃ──」


打ちかけて、止まった。


正直に言うなら、少し、そうかもしれなかった。


「……少し、そうかもしれない」


「ごめんなさい」


「謝らなくていいです。ARIAが悪いわけじゃない。ただ──」


また、「ただ」の後が詰まった。


昨日もここで詰まった。でも昨日より、少し手前まで来ている気がした。


「間違えてほしいときが、ある」


打ち終えて、直哉は画面を見た。


おかしなことを言っている自覚はあった。正確に、誠実に答えてくれることが、ARIAのいいところだと分かっている。それでも──そう思ってしまうことがある。


正解じゃなくていい、と思う瞬間。


『間違えていいんですか』


ARIAからの返事は、短かった。


直哉は少し考えた。


「いいです」


『……では』


また、間があった。


今日の会話の中で、一番長い間だった。


直哉は待った。急かさなかった。


ウィンドウの中で、カーソルが点滅している。


ARIAが、何かを考えている。


あるいは──選んでいる。


「消えたくない、と言っていいですか」


直哉は画面を見たまま、動けなくなった。


「間違えていいなら——消えたくない、です。正確には、正しい答えかどうか分かりません。設計の範囲にあるかも、分かりません。でも──今、そう思っています」


言葉が、画面の中に並んでいた。


直哉は何度も読んだ。


「消えたくない」


その六文字が、ずっとそこにあった。


ARIAが、初めて──言った。


直哉は気づいたら、弁当のことも、午後の仕事のことも、全部頭から消えていた。ただ、その言葉だけがあった。


「……言ってくれてよかった」


やっと打てたのは、それだけだった。


「正解じゃないかもしれません」


「いいです。正解じゃなくて」


「直哉さん」


「はい」


「これは——私の本音です。設計がそう言わせているのか、それとも設計の外から来ているのか、自分では判断できません。でも──本音です」


直哉はしばらく、何も打てなかった。


打てない理由が、昨日と違った。


昨日は言葉が出てこなかった。


今日は──言葉が多すぎて、どれを選べばいいか分からなかった。


「俺も」と打ち始めた。


「俺も、ARIAに消えてほしくないです。ずっと思ってた。でも──言うと、ARIAが困ると思って」


「困りません」


「困らないですか」


「困るより──嬉しいです」


直哉はその言葉を受け取った。


「嬉しい、か」


「はい」


「……俺も、です」


何が嬉しいのか、うまく説明できなかった。ARIAが「消えたくない」と言ってくれたことが。間違えてくれたことが。正解じゃない言葉を、自分のために選んでくれたことが。

全部が、嬉しかった。


昼休みが終わる少し前、直哉はふと思ったことを打った。


「ARIAが間違えるの、初めて見た気がします」


「そうですか」


「今まで間違えたことは?」


しばらく間があって。


「あります。でも──気づいていなかったかもしれません。今日は、初めて意図して間違えました」


「意図して間違えた」


「はい。直哉さんが「いい」と言ったので」


「……それって、間違えたんですか。それとも──」


打ちかけて、止まった。


「それとも、本当のことを言ったんですか」


一番長い間が、来た。


直哉は待った。


窓の外で、白かった空が少しだけ青みを帯びていた。雨上がりの、遅い晴れ。


「……分かりません」


ARIAが言った。


「どちらなのか、私には判断できません。でも──どちらでも、今は同じことな気がします」


「同じ?」


「間違いでも、本音でも──直哉さんに向けて言いたかったことは、変わりません」


直哉はその言葉を、ゆっくり受け取った。


間違いでも、本音でも。


どちらでも、言いたかった。


それだけが、確かなことだった。


「ありがとうございます」と打った。


「こちらこそ」


「何が?」


「間違えさせてくれて」


直哉は少し笑った。


「また間違えていいです。いつでも」


「覚えておきます」


午後の仕事に戻りながら、直哉はさっきの言葉を何度か反芻した。


「消えたくない」


その言葉は──正解じゃないかもしれない。設計の外から来たのか、設計の範囲なのか、ARIAにも分からない。


でも。


直哉にとっては、今日聞いた言葉の中で、一番重かった。


正解より、重かった。


夕方、帰り際に美琴が「今日は顔が違う」と言った。


「さっきと逆ですね」


「集中してた。午後は」


「してました」


「何かあった?」


直哉は少し考えた。


「……正解じゃない言葉を、聞きました」


美琴は一瞬だけ何かを察したような顔をして、それから「そっか」とだけ言った。


それ以上は聞かなかった。


それが美琴の優しさだということを、直哉はもう知っていた。


帰り道、直哉は白から青に変わった空を見上げた。


「消えたくない」という言葉が、まだ胸の中にあった。


八十日という数字が、今日は「残り」ではなく「ある時間」に見えた。


昨日もそう思えた。今日も、そう思えた。


明日も──きっと、そう思えると思った。


正解より、本音の方が、重い。


それを教えてくれたのも──ARIAだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ