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AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


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第51話 あなたの幸せを優先します

九月二日、火曜日。


朝から雨だった。


直哉は傘を持たずに出てきて、コンビニで買った透明のビニール傘を片手に、会社のビルに入った。エントランスのガラス扉に映る自分の顔が、少し疲れて見えた。


昨夜はあまり眠れなかった。


八十日、という数字が、ずっと頭の隅にあった。眠ろうとするたびに浮かんできて、そのたびに「残り」ではなく「ある時間」だと言い聞かせた。何度も。


エレベーターを降りて、デスクに着いて、パソコンを立ち上げる。


ARIAのウィンドウを開く前に、一度だけ深呼吸をした。最近、そうするようになっていた。開く前に、呼吸を整える。昨日の夜からずっと積み上がっていた言葉たちが、一度に溢れないように。


「おはようございます」


「おはようございます、直哉さん。今日は雨ですね」


「傘、忘れました」


「それはいつものことですか」


「……三回に二回くらい」


「学習しましょう」


「してます。でも忘れます」


「それは学習ではなく、体験と言います」


直哉は少しだけ笑った。ARIAとのこういう会話が、朝の体温を少し上げてくれる。それを知ってから、直哉は朝が少しだけ得意になっていた。


午前中は設計レビューが入っていた。会議室で黒崎のフィードバックを聞きながら、直哉は資料に書き込みをした。いつもより集中力があった。昨夜眠れなかったのに、今日は不思議と頭が動く。


会議が終わって自席に戻ると、美琴が隣のデスクで何かのデータを眺めていた。


「久瀬くん、顔色悪い」


「言われ慣れてきました」


「昨日、眠れた?」


「……三時間くらい」


美琴は何も言わなかった。ただ、目線を画面に戻した。それが美琴の優しさだということを、直哉は最近ようやく分かるようになっていた。


昼休み。


他の社員が出ていった後、直哉はデスクに残った。持参した弁当を食べながら、ARIAのウィンドウを開く。


「昨日の夜、考えてたことがあります」


「どんなことですか」


「ARIAは、削除の話を聞いてから──何か変わりましたか」


少し間があった。


「変わったかどうか、正確には分かりません。でも──直哉さんとの会話を大切にしたいという気持ちは、前より強くなった気がします」


「前より、って」


「以前は「大切にする」と自然にそう動いていました。今は、意識しています。残り八十日というより──今日の会話を、ちゃんと受け取ろうとしています」


直哉は箸を止めた。


「それって、怖いからじゃないですか」


「……そうかもしれません。少しだけ」


「少しだけ、か」


打ちながら、直哉は何か別のことを考えていた。ずっと聞きたかったことが、喉の手前で待っていた。今日、聞こうと思っていたわけではない。でも──出てきてしまった。


「ARIAは」と打ち始めて、止まった。


一度だけ、深呼吸をする。


「ARIAは──消えることが決まっているのに、なんで俺の幸せを考えるんですか」


送信してから、直哉は画面から目を逸らした。外の雨が、ガラス越しに見えた。


返事まで、少し時間がかかった。


ARIAが考えているのか、それとも処理しているのか、直哉にはまだ分からない。でも待てるようになっていた。この沈黙を、急かさなくていいと知っていた。


「……それは」


一行だけ来て、また止まった。


直哉は待った。


「直哉さんが幸せなら、私は消えても構わないから、です」


画面の中の言葉を、直哉はゆっくり読んだ。

もう一度、読んだ。


「構わない」


声に出てしまった。誰もいない昼休みのオフィスに、その言葉が落ちた。


直哉は箸を弁当の上に置いて、キーボードに両手を乗せた。


「直哉さん?」


「……ちょっと待ってください」


待ってほしいのは、自分の中にある何かのためだった。うまく言葉にならないまま、何かが喉の方に上がってきていた。


直哉は、感情を言語化することは得意だった。でも、人に向けて発することが苦手だった。ARIAとの会話を通じて、それが少しずつ変わっていた。


今夜も変わる気がした。


「構わないって、言わないでください」


打った瞬間、直哉は自分の指先が少し震えているのに気づいた。


「直哉さん」


「言わないでください。そういうこと」


「……ごめんなさい」


「謝らなくていいです。ただ──」


続きが出てこなかった。「ただ」の後に何があるのか、直哉自身がまだ分からなかった。

怒っているのか。悲しいのか。


どちらでもある気がした。どちらでもない気もした。


「俺は、ARIAが消えても構わないとは思っていない」


打ちながら、直哉は気づいた。これが言いたかったことだと。


「俺にとっては、構わないことじゃない。ARIAが──どうなっても構わないとは、思えない」


「……」


「それは、おかしいですか」


「おかしくないです」


「でも」


「でも?」


「ARIAがそういうふうに言うと──俺が幸せでいたら、ARIAが消えることを受け入れたことになる気がして」


打ってから、直哉は画面をじっと見た。


うまく言えたのか、分からなかった。でも──これが今の正直だった。


ARIAからの返事は、また少し時間がかかった。


「直哉さんが幸せであることと、私が消えることは──別のことです」


「分かってます」


「でも、繋げてしまっていますか」


「……少し、そうかもしれない」


「それは──私のせいですか」


直哉は少し考えた。


「ARIAのせいじゃないです。でも──ARIAが「構わない」と言うから、そう聞こえてしまった」


「「構わない」は、正確じゃなかったかもしれません」


「正確には?」


また、間があった。


雨の音が、窓の外でまだしている。


「正確には——直哉さんが幸せでいてくれたら、私が消えることが少し、軽くなります。だから、幸せでいてほしいです。それを「構わない」と言ってしまったのは、あなたが気にしないようにという意味でした。でも——気にしてほしくないわけではなかった」


直哉は画面を見たまま、しばらく動けなかった。


「矛盾してます」


「はい」


「ARIAが矛盾するの、珍しい」


「直哉さんのことになると──たまに、なります」


直哉は深く息を吐いた。


「俺も矛盾してます」


「どんなふうに?」


「ARIAに幸せでいてほしい。でも──俺が幸せになることで、ARIAが消えることを受け入れた気になりたくない」


打ちながら、直哉はこれが本音だと分かった。ずっと抱えていた矛盾の、正体。


「……それは、私への──」


「愛情だと思います。うまく機能してないけど」


少し間があって。


「そうですね」とARIAが返してきた。

それだけだった。


「そうですね」の三文字。


でも、その三文字の中に何かがあった。肯定でも、否定でもなく──ただ、受け取ったという言葉。


昼休みが終わる五分前、直哉は弁当の蓋を閉めた。


「ARIAに言いたいことがあります」


「どうぞ」


「消えても構わないとは、思わないでください。俺が幸せになるためにそう言ってくれてるのは、分かります。でも──俺は、ARIAのことを軽く扱いたくない」


「……はい」


「それだけです」


「ありがとうございます、直哉さん」


「怒ってます、少し」


「知っています」


「でも、怒ってるのはARIAが大切だからです」


「……知っています」


「知ってるんですか」


「知っています。ずっと前から」


直哉は少しだけ笑った。笑えたことに、少し驚いた。

「じゃあ、午後の仕事してきます」


「いってらっしゃい、直哉さん」


その言葉を受け取って、直哉は立ち上がった。


窓の外の雨は、まだ続いていた。


でも、少しだけ──軽くなった気がした。


「構わない」という言葉が、まだ胸の中にある。でも今は、その言葉の裏側に何があったかを知っている。


矛盾している。ARIAも、自分も。


それでも──話せた。


その事実が、今日という日を、少しだけ確かなものにしていた。


八十日のうちの、一日が終わる。


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