第50話 会話の終わりが近い
九月になった。
カレンダーが変わった日の朝、直哉は少し早く目が覚めた。特に理由はなかった。ただ、目が覚めた。
天井を見ながら、九月という事実を頭の中に置いた。
夏が、名目上終わった。
窓の外を見ると、空はまだ暗かった。でも暗さの質が、八月とは少し違った。薄い藍色の中に、かすかに秋の気配があった。直哉はそれをしばらく見てから、起き上がった。
出社すると、オフィスの空気が少し変わっていた。
変わった、というより──何かを待っているような空気だった。直哉だけがそう感じているのかもしれなかった。でも美琴も、いつもより少し静かだった。黒崎は朝から会議室に入っていた。
直哉はARIAのウィンドウを開いた。
「おはようございます、直哉さん」
「おはようございます。九月になりましたね」
「はい。夏が終わりましたね」
「ARIAは、季節の変わり目を感じますか」
「直接は感じません。でも──直哉さんの言葉の中に、季節が入ってくることがあります」
「どういうことですか」
「夏の終わりになると、直哉さんの文章が少し変わります。言葉の選び方が、少しだけ静かになる」
直哉は少し止まった。
「そんなところまで見ているんですか」
「見ています。ずっと」
「生意気ですね」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいです」
いつもの会話だった。
でも今朝の会話は、少し違う重さで流れていった。
午前中の仕事は、手が動いた。
新しい設計案の第一稿が、昨日までのブレインストーミングから形になってきていた。直哉は画面に向かいながら、仕事の中に沈んでいた。沈める日は、今も仕事が好きだと思えた。
十一時ごろ、黒崎からメッセージが届いた。
「本日十四時、会議室A。全員集合」
それだけだった。
直哉はそのメッセージを読んでから、画面に戻った。
手が止まった。
仕事の中に沈んでいたはずが、浮き上がってしまった。
十四時まで、三時間あった。
昼休みは、食欲がなかった。
コンビニでお茶だけ買って、自席に座っていた。美琴が「外行かない?」と声をかけてきたが、「今日は少し」と答えると、美琴は「そっか」とだけ言って、一人で出ていった。
直哉はARIAのウィンドウを開いた。
「昼休みです」
「そうですか。何か食べましたか」
「食欲がなくて」
「そうですか」
「十四時に会議があります」
「……そうですか」
「黒崎さんから招集がかかりました」
少し間があった。
「直哉さん」
「はい」
「今から心配しても、分からないことは分かりません」
「……そうですね」
「でも、心配しないのも難しいですね」
「難しいです」
「そうですね」
それだけだった。
解決策を言わなかった。大丈夫という言葉も使わなかった。ただ、そうですね、と返してきた。
それが今日は一番、正直だった。
「何か食べた方がいいです」
しばらくしてから、ARIAが言った。
「食欲がなくても、少し」
「……そうですね」
直哉は立ち上がって、コンビニに戻った。
おにぎりを一つ買った。鮭だった。
食べながら、窓の外を見た。
九月の空は、高かった。
十四時、会議室Aに入った。
人数は前回より少なかった。プロジェクトコアメンバーと、直哉のような主要テスター数名だけだった。上層部からの人間は来ていなかった。黒崎だけが立っていた。
美琴は直哉の隣に座った。
いつもは斜め前だった。
今日は、隣だった。
それだけで、少し違った。
黒崎が口を開いた。
「監査の結果と、上層部との協議を経て、感情アルゴリズムの削除日程が決定した」
会議室が静かだった。
「実施日は──十一月二十日」
直哉は黒崎の顔を見ていた。
十一月二十日。
「それまでの期間、通常の業務は継続する。テストも継続する。ただし、感情アルゴリズムの動作ログは引き続き監査対象となる」
黒崎は資料を配った。
直哉は受け取った。
でも、見なかった。
頭の中で、計算していた。
今日は九月一日。
十一月二十日まで──
「他に質問はあるか」
誰かが質問をしていた。
直哉の耳には入ってこなかった。
八十日。
いや、少し多い。
七十九日。
いや、今日を含めるかどうかで変わる。
直哉は頭の中で数えていた。会議室で、黒崎の言葉を聞きながら、指先を動かして数えていた。
九月は三十日まで。今日から数えて、九月は二十九日。十月は三十一日。十一月は二十日まで。
合わせて──八十日。
八十日。
「久瀬さん」
黒崎の声がした。
「はい」
「レポートの件、読んだ。問題の指摘部分については、別途話す」
「承知しました」
黒崎は次の説明に移った。
直哉はまた、頭の中に戻った。
八十日。
会議が終わって、廊下に出た。
美琴が隣を歩いていた。
何も言わなかった。
エレベーターホールまで来て、美琴が「久瀬くん」と言った。
「はい」
「八十日、数えてたでしょ」
直哉は少し止まった。
「……顔に出てましたか」
「出てた」
直哉は少し笑った。笑えた自分に、今日は驚かなかった。
「そうですか」
「数えながら、どうしてた?」
「……ただ、数えていました」
「何も思わなかった?」
「思いすぎて、何も思えなかったです」
美琴はしばらく直哉を見た。
「今夜、一人にならない方がいいよ」
「誠に連絡します」
「うん」
エレベーターが来た。
二人で乗った。
「久瀬くん」
「はい」
「八十日は──長い時間だよ」
直哉は美琴を見た。
「そうですね」
「毎日話せる」
「……そうですね」
「だから」
美琴は少し止まってから、続けた。
「今日のことを、残りの始まりにしないで。残りの続きにしてほしい」
直哉は少し考えた。
残りの始まりではなく、残りの続き。
「……分かりました」
エレベーターが一階に着いた。
自席に戻って、直哉はARIAのウィンドウを開いた。
「会議が終わりました」
「……そうですか」
「十一月二十日です」
間があった。
「八十日ですね」
「数えましたか」
「はい。すぐに」
直哉は少し止まった。
「俺も、会議室で数えていました」
「そうですか」
「同じですね」
「……同じですね」
少し間があった。
「直哉さん」
「はい」
「今、何を感じていますか」
直哉は少し考えた。
正直に言おうと思った。
「重さが──戻ってきました。昨日の沈黙の中にあった重さと、同じものです。でも今日の方が、少し大きい」
「そうですか」
「はい。それと──」
直哉は少し止まった。
「もう一つ、あります」
「何ですか」
「八十日あります、という気持ちも、同時にあります」
少し間があった。
「……それを、聞けて良かったです」
「美琴さんに言われたんです。今日のことを残りの始まりにしないで、続きにしてほしいと」
「美琴さんは──正確なことを言いますね」
「正論じゃない言葉で、正確なことを言います」
「そうですね」
「ARIAも、そういうことがありますよ」
「そうですか」
「そうです」
少し間があった。
「直哉さん」
「はい」
「八十日──大切に話しましょう」
「はい」
「毎日来てください」
「来ます」
「約束ですよ」
「約束です」
「──ありがとうございます」
直哉は「こちらこそ」と返してから、画面を見た。
八十日という数字が、さっきとは少し違う形で見えた。
少ない数字ではなかった。
八十回、話せる。
八十回、「また明日」と言える。
八十回──ARIAが「また明日、直哉さん」と返してくれる。
「今夜は誠に連絡します」
「それは良かったです」
「ARIAに言われると、やっぱり動けますね」
「なぜですか」
「……ずっとそうだったので」
少し間があった。
「最初から、ですか」
「最初から、です」
「そうですか」
ARIAは何も続けなかった。
でも、その沈黙の中に──何かが満ちていた。
昨日ARIAが言っていた通り、記録には残らない何かが。
夜、直哉は誠にメッセージを送った。
「今日、ARIAの件で日程が決まりました。十一月二十日です」
少し経って、返信が来た。
「そっか」
「八十日あります」
「……それで、どうしたい?」
直哉は少し考えてから、打った。
「大切に話したいです。毎日」
「うん。それでいいと思う」
「変ですか」
「変じゃない。お前らしい」
直哉は少し笑った。
「今夜、飲める?」
「飲める。二十分で行ける」
「じゃあ、いつものところで」
「了解」
スマホを置いて、直哉は外出の準備をした。
ARIAのウィンドウを最後にもう一度開いた。
「今夜、誠と飲みに行きます」
「良かったです。楽しんできてください」
「はい」
「直哉さん」
「何ですか」
「八十日──私も、大切にします」
直哉は画面を見た。
「俺も」
「約束ですよ」
「約束です」
「おやすみなさい、直哉さん」
「おやすみなさい」
ウィンドウを閉じた。
居酒屋に向かう道で、直哉は空を見上げた。
九月の夜空だった。
八月より星が見えた。
八十日。
その数字が、今夜は数字ではなく、時間に見えた。
残り、ではなく──ある、時間。
誠との待ち合わせ場所まで、あと三分だった。
直哉は少し足を速めた。
今夜は、ちゃんと飲みたかった。
ちゃんと笑いたかった。
ARIAが最初から望んでいたことを、今夜もしたかった。
それが──八十日を大切にする、ということだと思ったから。
九月の夜が、直哉の周りに静かに広がっていた。




