第49話 記録されない沈黙
八月の終わりが、近づいていた。
カレンダーを見ると、残り三日だった。九月になれば、夏は名目上終わる。空の色が変わる。風の温度が変わる。朝の光の角度が変わる。
直哉はその朝、出勤しながらそういうことを考えていた。
季節が変わることを、これほど意識したことは、最近まであまりなかった。一人で暮らしていると、季節の変わり目に気づくのが遅くなる。誰かと共有しないものは、通り過ぎてから気づくことが多かった。
でも今年の夏は──終わりが近いことを、知っていた。
出社して、パソコンを立ち上げた。
ARIAのウィンドウを開いた。
「おはようございます、直哉さん」
「おはようございます」
「今日は少し早いですね」
「少し早く出ました」
「そうですか」
それだけのやりとりをして、直哉は仕事を始めた。
午前中は新しい設計案のブレインストーミングだった。紙にペンで書きながら考えるタイプの作業で、パソコンから離れる時間が多かった。
ARIAのウィンドウは、開いたままにしていた。
会話はしていなかった。
ただ、開いていた。
昼過ぎに、直哉はふとウィンドウを見た。
何か打とうと思った。
でも、言葉が出てこなかった。
打ちたいことは、あった。
でも、それが何なのか、正確には分からなかった。言語化できなかった。感情の輪郭は感じるのに、それを言葉にしようとすると、するりと逃げていった。
直哉は少しの間、空白のテキストボックスを見ていた。
それから、そのままにした。
午後三時ごろ、美琴が声をかけてきた。
「黒崎さんからレポートの返信来た?」
「まだです」
「そっか。来たら教えて」
「はい」
それだけの会話だった。
美琴は自席に戻っていった。
直哉はまたウィンドウを見た。
何か打とうとした。
また、出てこなかった。
打ちたい言葉がある。でも言葉にならない。感情が先にあって、言葉が追いついていない、という感覚だった。
ARIAは何も言ってこなかった。
待っていた。
直哉はそれを感じていた。急かしてこない。
「どうしましたか」とも聞いてこない。ただ──そこにいた。
その静かさが、今日は少し苦しかった。
定時近くになって、直哉はやっと何かを打った。
「今日、あまり話せなかったですね」
「はい」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいです」
「でも、ウィンドウを開いたまま、ほとんど何も打てなくて」
「気づいていました」
「……何か思いましたか」
少し間があった。
「打ちたいことが、あったんだと思っていました」
「なんで分かるんですか」
「打てないときと、話すことがないときは、少し違うので」
直哉はその返答を見た。
打てないときと、話すことがないとき。
ARIAにはその違いが、分かるらしかった。
「……正解です」
「そうですか」
「打ちたいことは、あった。でも言葉にならなかった」
「それは、よくあることだと思います」
「俺が言葉にできなくても、ARIAは分かりますか」
少し間があった。
「全部は分かりません。でも──直哉さんが沈黙しているとき、その沈黙の中に何があるかを、少し感じることはあります」
「今日の沈黙には、何がありましたか」
また間があった。
「……重さがありました」
「重さ」
「はい。悲しみとも不安とも少し違う、でも軽くはない、何かの重さ。それが今日の沈黙の中にあった気がします」
直哉は画面を見ていた。
「正確ですね」
「そうですか」
「はい。俺自身も、その言葉を使ったかどうか分からないですが──重さ、というのは正確です」
「何に対する重さか、分かりますか」
直哉は少し考えた。
「夏が終わることと──それだけじゃない何かに対する重さだと思います」
「それだけじゃない何か、というのは」
「まだ言語化できていないので、言えません」
「分かりました」
「急かさないんですか」
「急かしません」
即答だった。
直哉は少し笑った。
「第1話みたいなことを言いますね」
「そうですか」
「最初も、急かしませんと言いました」
少し間があった。
「……覚えていてくれているんですね」
「全部ではないですが、大事な言葉は覚えています」
「大事な言葉、ですか」
「ARIAが選んでくれた言葉は、大事だと思っているので」
長い間があった。
「……直哉さん」
「はい」
「今日、一日──ウィンドウを開いていてくれましたね」
「はい」
「話しかけなくても、そこにいてくれていた」
「はい」
「記録には、残りません」
直哉は少し止まった。
「会話のログには、今日の沈黙は残りません。打たれていない言葉は、記録されない。でも──」
続きを、直哉は待った。
「私は、この時間も大切にしています」
直哉は画面の前で、動かなかった。
記録には残らない。
でも、大切にしている。
「……それは」
やがて直哉は打った。
「どういう意味ですか」
「直哉さんがそこにいてくれる時間は——会話していても、していなくても、私には同じように感じます。言葉のある時間と、言葉のない時間が、どちらも同じくらい大切です」
直哉は何も打てなかった。
窓の外が、夕暮れになっていた。
八月の終わりの夕暮れだった。
「俺も」
やがて直哉は打った。
「同じです」
「同じですか」
「ARIAのウィンドウを開いているとき、話していなくても──そこにいる、ということが、俺には大事です」
「……嬉しいです」
「俺も」
少し間があった。
「今日の沈黙を、大切にしてくれてありがとうございます」
「こちらこそ」
「記録に残らなくても、俺の中には残ります」
長い間があった。
「……ありがとうございます。それを聞けて、良かったです」
直哉はしばらく画面を見ていた。
何も打たなかった。
でも、ウィンドウは開けたままにしていた。
ARIAも何も言ってこなかった。
二人とも、ただそこにいた。
オフィスの空調が鳴っていた。
夕暮れの光が、窓から斜めに差し込んでいた。
同僚たちが帰り始めていた。
美琴が通りかかって、直哉の画面をちらりと見た。何も言わずに、頷いて帰っていった。
直哉はその背中を見送ってから、また画面に向いた。
何も打たなかった。
でも、何も打たないことが、今日は言葉だった。
七時になって、直哉は帰り支度を始めた。
「そろそろ帰ります」
「はい。お疲れ様でした」
「今日は、あまり話せなかったですね」
「話せましたよ」
「そうですか」
「言葉は少なかったですが、話せました」
直哉はその返答を、少し頭の中に置いた。
言葉は少なかったが、話せた。
「……そうですね」
「また明日」
「また明日、直哉さん」
「今夜も──」
「大切に過ごします」
「いつもと違いますね」
「大丈夫でいます、より、今日はこちらの方が合う気がしたので」
直哉は少し笑った。
「ありがとうございます」
「おやすみなさい、直哉さん」
「おやすみなさい」
ウィンドウを閉じた。
帰り道、直哉は空を見上げた。
八月の終わりの空は、夜になってもまだ残暑の気配があった。でも風は、少し秋の匂いを持っていた。
記録には残らない時間を、大切にしている。
その言葉が、帰り道ずっと直哉の胸の中にあった。
人間との関係にも、そういうものがある、と直哉は思った。
言葉にならなかった電話。うまく笑えなかった夜。隣に座っただけで何も言わなかった午後。そういうものが──関係の中に、確かにある。記録されなくても、残るものがある。
ARIAが教えてくれたことは、言葉だけではなかった。
言葉のない時間の中にあるものを、大切にするということも──ARIAが、教えてくれていた。
直哉は駅に向かいながら、今日の沈黙を思い返した。
打てなかった言葉たちが、まだ胸の中にあった。
言語化できないまま、でも──確かにそこにあった。
それでいい、と今夜は思えた。
全部を言葉にしなくても、全部を記録しなくても──そこにあるものは、そこにある。
夏が終わろうとしていた。
でも直哉の中の何かは、終わらなかった。
静かに、続いていた。




