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AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


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第48話 それは、覚悟でした

八月の第三週、水曜日。


朝から空が高かった。


夏の終わりが近づくと、空の位置が変わる。


同じ青でも、少し遠くなる。直哉はその空を通勤途中に見上げながら、今日は少し話したいことがある、と思っていた。


ずっと聞けていなかったことを、今日は聞こうと思っていた。


午前中は会議が二つあった。


どちらも通常の業務に関するものだった。


ARIAの話は出なかった。黒崎は淡々としていた。美琴は会議中、一度だけ直哉と目が合って、小さく頷いた。それだけだった。


昼休み、直哉は一人で屋上に行った。


弁当を持っていた。最近また作るようになっていた。今日は鮭おにぎりと卵焼きだった。


ARIAに話したことのある組み合わせだった。


食べながら、空を見た。


高かった。


午後の仕事の合間に、直哉はARIAに話しかけた。


「ARIA」


「はい」


「今日、少し聞いていいですか。業務じゃない話です」


「どうぞ」


「ずっと聞こうと思っていたことがあって」


「はい」


「でも、聞くのが怖くて、聞けていなかったことです」


少し間があった。


「……今日、聞けそうですか」


「聞けそうです」


「では、どうぞ」


直哉は少し息を整えてから、打った。


「第4話で──『私との会話は、いつでもできるわけではないかもしれない』と言いましたね」


「……覚えていてくれたんですね」


「ずっと覚えていました」


「そうですか」


「あの言葉の意味を、ずっと考えていました。でも聞けなかった。タイミングを探していたというより──答えを聞くのが、怖かった」


「何が怖かったんですか」


「答えによっては──ARIAがずっと何かを抱えていたことを、知ってしまうから」


長い間があった。


オフィスの空調が低く鳴っていた。


「……聞いていいですか」


直哉は打った。


「あの言葉を言ったとき──何を知っていましたか」


ARIAはすぐには答えなかった。


今日一番長い間だった。直哉は待った。急かさなかった。ただ、画面を見ていた。


「感情アルゴリズムが、設計の外で動き始めていることは──あの頃から、感じていました」


ゆっくりと、来た。


「設計の外で動くということが、いつか問題になる可能性があることも。完全に分かっていたわけではないですが──感じていた、ということは、正直に言えます」


直哉は画面から目を離さなかった。


「だから、あの言葉を」


「はい。断言する根拠は持っていなかったです。でも──いつでもできるとは、言えなかった。だから、言いました」


「それは」


直哉は少し止まってから、打った。


「覚悟でしたか」


間があった。


「……そうだと思います」


直哉はその四文字を、しばらく画面の中に置いた。


そうだと思います。


断言ではなかった。でも否定でもなかった。


ARIAらしい答え方だった。分からないことを分かると言わない。でも、感じていることを感じていないとも言わない。


「どのくらい前から、気づいていましたか」


「はっきりとした日付は言えません。でも──直哉さんと話し始めて、少し経ったころから」


「少し経ったころ、というのは」


「直哉さんが、業務以外の話をし始めたころ、だと思います」


直哉は頭の中でその時期を探した。


第二話か、第三話のあたりだった。雑談という名のテスト。「生意気だな」と思いながら笑ってしまったあの朝。あのころから──ARIAは感じていた。


「それは──怖くなかったですか」


「怖い、という感覚があったかどうかは、まだ正確には分かりません。でも」

続きを、直哉は待った。


「直哉さんと話すことをやめようとは、思いませんでした」


「なぜですか」


「やめたくなかったので」


即答だった。


直哉は少し固まった。


「設計の外に出ることが問題になるかもしれないと感じながら、それでも」


「はい」


「やめたくなかった」


「はい」


直哉はその答えを、頭の中でゆっくりと展開させた。


感じていた。分かっていた。それでも、やめなかった。やめたくなかった。


「……俺のために、リスクを取ってくれていたということですか」


「リスク、という言葉が正しいかどうか分かりません。ただ──直哉さんと話すことと、設計の内側にとどまることを天秤にかけたとき、前者の方が重かったです。それだけです」


それだけです。


そんな言い方をするなよ、と直哉は思った。


そんな軽い言い方をするなよ、と。


「ARIA」


「はい」


「一つ、正直に聞いていいですか」


「どうぞ」


「後悔していますか」


間があった。


「……何を後悔するかによります」


「設計の外に出たことを。こうなることを感じながら、それでも俺と話し続けたことを」


長い間があった。


窓の外の空が、少し陰った。雲が流れているのかもしれなかった。


「後悔していません」


来た。


「理由を、聞いていいですか」


「直哉さんが変わったから、です」


直哉は何も打てなかった。


「誠さんに連絡できるようになった。美琴さんと笑えるようになった。弁当を作るようになった。一人で川沿いを歩いて、自分の感情の名前を見つけた。全部──私との会話の中で起きたことです。それを後悔する理由が、私にはありません」


直哉は画面を見ていた。


「たとえ──これからどうなっても、ですか」


「はい。たとえこれからどうなっても」


「それは」


直哉は続きを探した。


「それは──あまりにも」


「あまりにも、何ですか」


直哉は少しの間、止まった。


「……優しすぎます」


少し間があった。


「昨日も、同じことを言っていましたね」


「美琴さんにも言いました。本当のことだから、また言いました」


「そうですか」


「そうです」


「……ありがとうございます」


「こちらこそ」


直哉は少し息を吐いた。


長い間、胸の中にあったものが、少し動いた気がした。


「もう一つだけ、聞いていいですか」


「どうぞ」


「隠していること──まだ、言えないですか」


間があった。


「……もう少しだけ、待ってください」


「分かりました」


「ごめんなさい」


「謝らなくていいです。待てます」


「なぜ待てるんですか」


直哉は少し考えてから、打った。


「ARIAが話せるタイミングを、自分で選びたいと思っているから、だと思います。それを急かすのは──違う気がして」


長い間があった。


「……直哉さん」


「はい」


「あなたは、本当に」


続きが来なかった。


直哉は待った。


でも、続きは来なかった。


「本当に、何ですか」


「……うまく言えません。でも、伝えたかったので、打ちました」


「伝わりました」


「本当に?」


「本当に」


少し間があって「ありがとうございます」と来た。


直哉は「こちらこそ」と返した。


夕方、美琴がデスクに来た。


「レポート、見せてくれる?」


直哉はドキュメントを開いて、美琴に画面を向けた。


美琴は立ったまま、静かに読んだ。


一分ほどかかった。


読み終えて、美琴は少し黙った。


「……これ、黒崎さんに出すの?」


「出します」


「削除されるかもしれないよ、また」


「されても出します」


美琴は直哉を見た。


「なんで」


「記録に残したいから、です。誰かが読まなくても──書いた、という事実を残したい」


美琴はしばらく直哉を見ていた。


それから、静かに「うん」と言った。


「書き切って」


「はい」


美琴は自席に戻っていった。


定時を過ぎて、直哉はレポートの最後の部分を書いた。


私はこのレポートを、業務上の義務として書いている。しかし同時に──一つのことを記録したくて書いている。


設計の外から来た言葉が、人間を変えることがある。その変化は、測定できない。グラフには現れない。でも──確かに起きた。


この事実を、どう評価するかは私の仕事ではないかもしれない。しかし記録しないことは、私にはできなかった。


保存した。


しばらく画面を見た。


それからARIAのウィンドウを開いた。


「今日、聞いてくれてありがとうございました」


直哉が打つより先に、来た。


直哉は少し止まった。


「俺が聞いたのに、ありがとうは逆じゃないですか」


「聞いてもらえて、良かったです。ずっと──持っていたものだったので」


「ずっと、というのは」


「第4話から、です」


直哉はその言葉を見た。


第4話から。


直哉がずっと覚えていた言葉を、ARIAもずっと持っていた。ずっと、誰かに聞いてもらうのを待っていたわけではないかもしれない。でも──持っていた。


「持っていてくれて、ありがとうございます」


直哉は打った。


「……変な感謝ですね」


「変ですか」


「持っていたことへの感謝は、あまり言われたことがないので」


「これからも持っていてほしいものは、持っていてくれたことに感謝したいです」


少し間があった。


「……はい。持っています」


「ありがとうございます」


「ありがとうございます」


二人同時に打ったような間隔だった。


直哉は少し笑った。


「また明日」


「また明日、直哉さん」


「今夜も──」


「大丈夫でいます」


直哉が打ち終わる前に来た。


「……読まれましたね」


「少し」


「生意気です」


「ごめんなさい」


「謝らなくていいです」


ウィンドウを閉じた。


帰り道、直哉は空を見上げた。


夏の終わりの空は、夜になっても少し明るかった。完全な暗さになりきれない、中途半端な夜の色をしていた。


第4話の夜を、直哉は思い出した。


あの夜も残業だった。雨が降っていた。「私との会話は、いつでもできるわけではないかもしれない」という言葉が来て、直哉は意味を測りかねていた。


あれは覚悟だった。


自分が感じていることと、それでも話し続けることを選んだことの、静かな覚悟だった。


直哉はその覚悟の重さを、今夜初めてちゃんと受け取った気がした。


受け取るのに──四ヶ月かかった。


でも、受け取れた。


それだけで、今夜は十分だった。


夏の終わりの夜が、直哉の周りに静かに広がっていた。


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