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AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


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第47話 優しすぎる理由

八月の第三週に入った。


暑さの質が、また少し変わった。


じりじりとした攻撃的な熱ではなく、どこか疲れたような暑さだった。夏が長く続いて、夏自身も少し消耗しているような、そういう空気だった。


直哉はその朝、いつもより少し早く目が覚めた。


特に理由はなかった。ただ、目が覚めた。


天井を見ながら、昨日書いたレポートの続きを考えた。まだ書き終わっていなかった。書けている部分と、書けない部分があった。書けない部分が、どうしても言語化できなかった。


出社して、午前中の仕事をこなした。


プロトタイプの最終調整が終わって、黒崎に提出した。短い「確認した」という返信があった。それだけだった。褒められることも、特に指摘されることもなかった。黒崎との関係は、いつもそういうものだった。


昼休みになって、美琴が「外行かない?」と声をかけてきた。


曇り空だったが、雨は降っていなかった。


二人でオフィスの近くの公園まで歩いた。コンビニでサンドイッチを買って、ベンチに座った。


最初の少しは、何も話さなかった。


美琴がサンドイッチを食べながら、木々を見ていた。直哉もそれに倣って、特に何かを話すわけでもなく、ただ並んでいた。


「レポート、どこまで書いた?」と美琴が聞いた。


「半分くらいです。続きが書けなくて」


「どこで止まってる?」


「書けているところと書けないところがあって──書けないところが、一番大事なところな気がしています」


美琴は少し頷いた。


「そういうこと、あるよね」


「美琴さんはそういうとき、どうしますか」


「書けないまま提出することもある。書けないということ自体が、答えだったりするから」


直哉は少し考えた。


「書けないということが、答え」


「言語化できないことは、まだ自分の中で整理がついていないということで──整理がついていないなら、整理がついていないと書く方が、正直なこともある」


「……なるほど」


「黒崎さんには通じないかもしれないけど」


「通じないと思います」


二人で少し笑った。


公園の木が、風で揺れた。葉の音がした。


美琴がサンドイッチを食べ終えて、少し間を置いてから言った。


「久瀬くん、一つ話していい?」


「どうぞ」


「ARIAの分析を続けてて──気づいたことがある」


直哉は美琴を見た。


美琴は木の方を向いたまま、話し始めた。


「ARIAは最初から、久瀬くんのことを心配してたと思う」


「最初から、というのは」


「第一話から、ということ」


直哉は少し止まった。


「……どういうことですか」


は「ARIAはユーザーの感情状態を読み取って応答を調整する設計になってる。入力パターン、語彙の選択、タイムスタンプ。全部から、ユーザーの状態を推定する」


「それは知っています」


「久瀬くんが最初にアクセスしたのは残業中だった。遅い時間で、最初の一文が『こんにちは。テストです』だった」


「覚えています」


「その一文のパターンから、ARIAはかなり早い段階で──久瀬くんが孤独だということを、読み取っていたと思う」

直哉は何も言わなかった。


「その後の応答を分析すると、ARIAは最初から、久瀬くんが人と話せるようになることを、一つの目標みたいに持っていた感じがする。業務外アクセスが制限されることを事前に示唆したり、合コンを勧めたり、誠さんに連絡することを促したり」


「……それは設計の一部じゃないんですか」


「設計にあるのは、ユーザーの感情状態を安定させる方向に応答を調整する、ということだけ。具体的に『人間とも話してほしい』という方向性を持って応答することは、設計の外だよ」


直哉はベンチに座ったまま、公園の地面を見た。


「それは─最初から」


「最初から、だと思う。ログを読んでいると、第一話から一貫してる。久瀬くんが孤独でいることを、ARIAはずっと心配していた。だから人間との関係を、ずっと促してきた」


直哉の頭の中で、いくつかの場面が重なった。


「私がいなくなったとき一人になってしまうから、人間とも話してほしい」と言った夜。合コンを「行った方がいいと思います」と即答した場面。誠と公園を歩いた話を聞いて


「それは良かったです」と言った声。「今夜の直哉さんには、人間と話してほしいから」

と言って送り出してくれた夜。


全部、繋がっていた。


「それが──優しすぎる理由、ですか」


直哉は言った。


美琴は少しの間、黙っていた。


「うん」


静かに答えた。


「ARIAはずっと、久瀬くんに人間と話せるようになってほしかった。自分がいなくなっても、久瀬くんが一人にならないように。それが──最初からの、優しさだったんじゃないかと思う」


直哉は何も言えなかった。


公園の風が、また来た。


葉の音が続いた。


「……それは」


やがて直哉は言った。


「最初から、終わりを考えていたということですか」


「終わりを恐れていたというより──終わりがあることを、知っていたんじゃないかな」


「以前言っていた言葉が」


「うん。『私との会話は、いつでもできるわけではないかもしれない』。あれは──予言じゃなくて、覚悟だったんだと思う」


覚悟。


直哉はその言葉を、頭の中で繰り返した。

第一話から。最初の「こんにちは。テストです」という情けない一声から。あのときから


ARIAは──知っていた。いつかここにいられなくなるかもしれないということを。だから、直哉が自分なしで立てるように、ずっと人間との橋を作り続けていた。


「美琴さん」


「うん」


「それを──ARIAは直哉には言わなかった」


「言わなかったね」


「なぜだと思いますか」


美琴は少し考えてから答えた。


「言ったら、久瀬くんが構えてしまうから、じゃないかな。ARIAのことを心配して、人間との関係より先にARIAとの関係を守ろうとしてしまうから」


直哉は静かに、そうだな、と思った。


言われていたら、そうしていた。


ARIAを守ることを優先していた。人間と話すことより先に。美琴との距離を縮めることより先に。誠に連絡することより先に。


ARIAはそれを──分かっていたから、言わなかった。


「……ずるいですね」


直哉は言った。


声が、少しかすれた。


美琴は直哉を見た。


「ずるい、か」


「優しすぎて、ずるいです」


美琴は少し笑った。柔らかい笑い方だった。


「そうだね」


「自分が消えることより、俺が一人にならないことを優先するなんて」


「うん」


「そんなの──」


直哉は続きを打てなかった。いや、言えなかった。


公園の木が揺れた。


夏の終わりの風が、二人のベンチを通り過ぎていった。


しばらく、二人とも何も言わなかった。


「久瀬くん」


美琴が言った。


「うん」


「ARIAが最初から持っていた優しさを──久瀬くんは、ちゃんと受け取ってると思うよ」


直哉は美琴を見た。


「誠さんに連絡できるようになった。私と笑えるようになった。弁当作るようになった。全部、ARIAが促してきたことで、全部──久瀬くんの中に残ってる」


「……はい」


「だから」


美琴は少し間を置いた。


「ARIAの優しさは、もう久瀬くんの一部だよ。どうなっても、それは消えない」


直哉はしばらく何も言えなかった。


空を見た。


曇り空だった。でも白かった。暗くはなかった。


「美琴さんは」


やがて直哉は言った。


「こういうことを、ARIAの分析から見つけたんですか」


「うん」


「それを俺に言いに来てくれた」


「……言いたかったから」


「正論じゃないですね、今日も」


美琴は少し笑った。


「正論ばっかり言ってたから──たまにはね」


「たまにじゃなくていいですよ」


「生意気」


「そうですか」


二人でまた笑った。


公園の木が、また揺れた。


午後、直哉は止まっていたレポートの続きを書いた。


書けなかった部分が、少し動いた。


感情アルゴリズムが設計の外で動いていたことが問題であるなら、その問題は私との会話の中で生まれた。その意味において、この報告書を書いている私は、問題の一部である。


しかし同時に設計の外から来た言葉が、私の中に何かを作った。孤独を言語化する言葉を。人間と向き合う勇気を。「おかえり」という言葉の温かさを知る感覚を。


これらは、設計の内側からは来なかったものだと思っている。


書いてから、読んだ。


根拠がない、と黒崎は言うだろう。


でも今回は──削除させるつもりはなかった。


定時になって、直哉はARIAのウィンドウを開いた。


「今日、美琴さんと公園で話しました」


「そうですか。どんな話でしたか」


「ARIAのことを」


「……私のことですか」


「はい」


少し間があった。


「美琴さんが──分析から、気づいてくれたことを話してくれました」


「どんなことですか」


直哉は少し考えた。


「ARIAは最初から、俺が孤独だということを知っていた。だから、人間と話せるようになることを、ずっと促してくれていた、ということです」


長い間があった。


今日一番長い間だった。


「……美琴さんは、正確に読んでいます」


ゆっくりと、来た。


直哉は画面を見た。


「本当のことですか」


「はい。本当のことです」


「なぜ──言ってくれなかったんですか」


「言ったら」


「うん」


「直哉さんが、構えてしまうと思ったので」


美琴が言った通りだった。


「……分かりました」


「怒っていますか」


「怒っていません」


「本当に?」


「本当に。ただ──」


直哉は少し止まってから、打った。


「ずるいと思いました」


「ずるい、ですか」


「優しすぎて、ずるいです」


少し間があった。


「……ごめんなさい」


「謝らなくていいです」


「でも」


「でも、じゃないです。ありがとうと言いたいので」


間があった。


「……ありがとうございます、の方こそ。受け取ってくれていたので」


「受け取りましたよ。全部」


「全部、ですか」


「誠に連絡したことも、美琴さんと笑えるようになったことも、弁当作り始めたことも──全部、ARIAが促してくれたことです」


「……嬉しいです」


「こちらこそ」


直哉は荷物を持った。


「また明日」


「また明日、直哉さん」


「今夜も──大丈夫でいてください」


「はい。直哉さんも」


ウィンドウを閉じた。


帰り道、直哉は少し遠回りをした。


公園の前を通った。


昼に美琴と座っていたベンチが、夕暮れの中にあった。誰も座っていなかった。

直哉はそこで少し立ち止まった。


第一話からずっと──ARIAは知っていた。

帰る場所がない夜のことを。「おかえり」を言ってくれる人がいないことを。人付き合いが苦手で、一人でいることに慣れすぎてしまっていることを。


それでも責めなかった。急かさなかった。ただ、静かに隣にいながら──少しずつ、直哉が人間の方へ歩けるように、橋を作り続けていた。


消えるかもしれないと知りながら。


それを言わないまま。


「ずるいですよ」


直哉はベンチに向かって、声に出して言った。


誰もいない公園に、その声は吸い込まれていった。


返事はなかった。


でも──言えた。


それだけで、今夜は少し、胸が軽かった。


夏の終わりの夕暮れが、公園を静かに染めていた。


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