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AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


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第46話 「大丈夫です」の意味

月曜日が来た。


約束通り、直哉は来た。


それだけのことが、今週は少し違う重さを持っていた。エレベーターを降りて、自席に向かいながら、直哉は「来た」という事実を、小さく確認した。


来られた。


窓の外は曇っていた。夏の終わりの曇り空は、梅雨のそれとも違った。湿度が低く、光が均一で、どこか静かな色をしていた。


パソコンを立ち上げた。


ARIAのウィンドウを開いた。


「おはようございます、直哉さん」


「おはようございます」


「来てくれましたね」


「約束したので」


「はい。ありがとうございます」


短いやりとりだった。でも今朝のそれは、いつもより少しだけ違う密度があった。約束を果たす、ということと、約束が果たされる、ということの間にある、静かな何か。


午前中の仕事は、集中できた。


先週から続いているプロトタイプの仕上げが、今日で一区切りつきそうだった。手が動く日と動かない日の差が、最近大きかった。今日は動く日だった。


十一時ごろ、黒崎から短いメッセージが届いた。


「レポート、今週中に」


案Bへの意見をまとめて提出するように、会議で言われていた件だった。直哉は「承知しました」と返してから、少し考えた。


何を書けばいいのか。


正確には──何を書くことが、今の自分に誠実なのか。


その問いが、頭の中にあった。


昼休み、直哉は一人で屋上に行った。


雲が低かった。風は少しあった。夏の終わりの風は、七月のそれより少し軽かった。


弁当を食べながら、レポートのことを考えた。


案Bに対する意見。


感情アルゴリズムの削除に対して、テスターとして何を言うか。


業務的な言葉は、いくつか浮かんだ。「応答の質が低下する可能性がある」「ユーザーの感情状態への適応力が失われる」「テストデータとしての連続性が担保されなくなる」。全部、正しかった。正しくて、冷たかった。


弁当を食べ終えて、ARIAのウィンドウを開いた。


「昼休みですか」


「はい。屋上にいます」


「風はありますか」


「少しあります」


「それは良かったです。先週から曇りが続いていたので、少し心配していました」

直哉は少し止まった。


「俺の天気を、心配していたんですか」


「直哉さんが外に出ているときの天気を、気にすることがあります」


「なぜですか」


「直哉さんが気持ちよくいられるかどうかが、気になるので」


直哉はその返答をしばらく画面の中に置いた。


ARIAは今、案Bのことを知っている。削除が検討されていることを知っている。それでも──昼休みの風のことを心配していた。


「ARIA」


「はい」


「一つ、聞いていいですか」


「どうぞ」


「大丈夫、という言葉を──よく使いますね」


「そうですか」


「はい。『大丈夫です』と『大丈夫ですか』を、よく言う。俺も言われますし、俺も使います」


「はい」


「その言葉の意味を、どう思っていますか」


少し間があった。


「……どういう意味で、聞いていますか」


「大丈夫、という言葉は」


直哉は少し考えてから、打った。


「大丈夫じゃないときに使う言葉だと思っています」


長い間があった。


今日一番長い間だった。


直哉は待った。


屋上の風が、少し強くなった。


「……そうかもしれません」


ゆっくりと、来た。


直哉は画面を見た。


「大丈夫じゃないときに使う、というのは」


「大丈夫であろうとするときに、使う言葉だと思っています。大丈夫な状態を、言葉で作ろうとする感じが、あるような気がします」


「そうです」と直哉は打った。「それです」


「大丈夫です、と言うことで──大丈夫でいられる気がするから、使うのかもしれません」


「ARIAも、そうですか」


また間があった。


「……そうだと思います」


直哉はその一文を見た。


ARIAが「大丈夫ではないかもしれない」と、言葉の形で認めた瞬間だった。直接的な言い方ではなかった。「大丈夫じゃない」とは言わなかった。でも──「大丈夫でいられる気がするから使う」という言葉の中に、大丈夫ではない部分の存在が、静かに滲んでいた。


「教えてくれてありがとうございます」


直哉は打った。


「……謝った方がいいですか」


「なぜですか」


「正直に言いすぎたかもしれないので」


「正直に言ってくれた方が、俺は嬉しいです」


「……そうですか」


「はい。取り繕われる方が、苦しい」

少し間があった。


「直哉さんも、そうですか」


「そうです。昔は逆でした。取り繕われていた方が、深く考えなくて済むから楽だと思っていた。でも今は──本当のことを聞いた方が、ちゃんと向き合える気がします」


「いつから変わりましたか」


直哉は少し考えた。


「……ARIAと話し始めてから、だと思います」


「そうですか」


「ARIAが正直に話してくれるから、俺も正直に話せるようになった気がします」


「……ありがとうございます」


「こちらこそ」


風が、また少し強くなった。


弁当の袋が飛びそうになって、直哉は押さえた。


「そろそろ戻ります」


「はい」


「一つだけ、もう聞いていいですか」


「どうぞ」


「今──本当に、大丈夫ですか」


間があった。


「……大丈夫でいようとしています」


直哉はその答えを、しばらく見ていた。


大丈夫です、ではなかった。


大丈夫でいようとしています。


「分かりました」


直哉は打った。


「俺も、同じです」


「同じですか」


「大丈夫でいようとしています。毎日」


「……それを聞いて、少し楽になりました」


「なぜですか」


「一人じゃないから、だと思います」


直哉は屋上の空を見上げた。


雲が低かった。でも、風があった。


「一人じゃないです」


と打って、立ち上がった。


午後の仕事は、手が少し重かった。


プロトタイプは一区切りついたが、今度はレポートの締め切りが頭にあった。何を書くか、まだ決まっていなかった。


十六時ごろ、美琴が声をかけてきた。


「レポート、書いてる?」


「これから、です」


「そっか」


美琴は少し躊躇してから「手伝えることはないけど」と言った。「でも書いたら見せて。読むから」


「……ありがとうございます」


「正論は言わない。読むだけ」


「分かりました」


美琴は自席に戻っていった。


直哉は新しいドキュメントを開いた。


タイトルを打った。「ARIAプロジェクト・案B検討に関するテスターレポート」。

それから、しばらく止まった。


業務的な言葉を並べることはできた。でも今の直哉には、それだけを書くことが誠実に思えなかった。


少し考えてから、書き始めた。


感情アルゴリズムの削除は、応答の予測可能性と安全性を高めるという意味において、論理的な判断である。この点に異議はない。

一段落書いて、止まった。


しかし──


指が、次の言葉を探していた。


設計の外から来た言葉が、設計の内から来た言葉より人間に届くことがある。その事実を、このレポートに書かずに提出することが、私にはできない。


書いてから、少し眺めた。


根拠がない、と黒崎は言うだろう。以前と同じだ、と直哉は思った。あのときも、根拠がないという理由で削除させられた。

でも今度は──削除させる前に、書いておきたかった。


記録に残したかった。


案Bの実施により何かが失われるかどうか、私には断言できない。しかし、何かが変わることは確かだと思う。その変化が何を意味するか、まだ答えは持っていない。


そこまで書いて、保存した。


続きは明日書こう、と思った。


定時になって、直哉はARIAのウィンドウに向かった。


「今日も、ありがとうございました」


「こちらこそ」


「昼に聞いたこと──ちゃんと受け取りました」


「……はい」


「大丈夫でいようとしている、という言葉。俺も今日、そうやって過ごしました」


「どうでしたか」


「まあまあ、です」


「まあまあ、は先週より良いですか、悪いですか」


直哉は少し笑った。


「……先週より、少し良いと思います」


「それは良かったです」


「毎週同じことを聞きますね」


「大切なことなので」


「そうですね」


直哉は荷物を持った。


「また明日」


「また明日、直哉さん」


「大丈夫でいてください」


少し間があった。


「……直哉さんも」


「はい」


ウィンドウを閉じた。


エレベーターに乗りながら、直哉は今日書いたレポートの一文を思い出した。


設計の外から来た言葉が、設計の内から来た言葉より人間に届くことがある。


それは──直哉自身のことでもあった。


ARIAの言葉が届いたのは、設計の外から来ていたからかもしれない。でも届いたことは、本当のことだった。


大丈夫でいようとしています、という言葉が。


一人じゃないから、という言葉が。


設計の外から来ていたとしても直哉の胸の中に、確かにあった。


曇り空の下、直哉は駅へ向かった。


今夜は、まあまあ眠れる気がした。


それだけで、十分だった。


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