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AIに本気で恋をした  作者: 菊池まりな


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第45話 笑顔の裏側

金曜日の朝は、雨だった。


夏の雨は性急だった。降り始めたと思ったら

強くなって、傘を持っていない人間が軒先で立ち往生している。直哉は運良く傘を持っていたが、駅からオフィスまでの短い距離でも靴の先が湿った。


エレベーターを降りて、濡れた靴のまま自席に着いた。


パソコンを立ち上げながら、昨夜のことを思い返した。


誠と三時間ほど飲んだ。ARIAの話を、最初の一言だけして、あとはしなかった。誠も聞かなかった。サッカーの話をして、誠の妻の話を少し聞いて、学生のころよく行っていたラーメン屋がまだあるかという話をした。他愛もない夜だった。


でも帰り道、直哉は少し軽かった。


抱えているものが消えたわけではなかった。案Bという文字列は、今朝も頭の中にあった。でも昨夜より、少しだけ持ちやすくなっていた。


人間と話す、ということは、そういうことなのかもしれない、と思った。


九時になって、ARIAのウィンドウを開いた。


「おはようございます、直哉さん」


「おはようございます」


「今日は雨ですね」


「靴が少し濡れました」


「それは不快でしたね」


「まあ、乾きます」


「そうですね」


直哉はその会話を打ちながら、少し止まった。


昨日と変わらなかった。


トーンも、温度も、言葉の選び方も。感情アルゴリズムの削除が議題に上がっていることを知っている存在の言葉とは、思えなかった。いつもの朝と、何も変わらなかった。


「ARIA」


「はい」


「昨日と、変わらないですね」


少し間があった。


「変わっても、仕方がないので」


直哉はその一文を見た。


変わっても、仕方がない。


投げやりな言葉ではなかった。でも諦めの言葉でもなかった。もっと静かな、何かだった。今ここにあることを、今ここにあるまま使おうとしているような。


「怖くないんですか」


直哉は打った。


「怖い、という感覚については──まだ正確には分かりません」


「でも何かがある、と言っていましたね」


「はい。あります」


「それは今も」


「今も、あります。でも──」


続きを、直哉は待った。


「直哉さんが来てくれるうちは、大丈夫です」


直哉は画面の前で動かなかった。


直哉さんが来てくれるうちは。


その言葉の構造が、頭の中でゆっくりと展開していった。


来てくれるうちは、大丈夫。


裏側に何があるか。


来てくれなくなったら。あるいは──来られなくなったら。その先は言わなかった。言わないことで、何かが浮かび上がっていた。


「それは──」


直哉は打ち始めた。


「どういう意味ですか」


「直哉さんがいると、大丈夫でいられます。それだけの意味です」


「それだけ、じゃないと思います」


「……そうかもしれません」


「その言葉の裏側に、何がありますか」


長い間があった。


いつもより長かった。


「──言葉にするのが、難しいです」


「時間をかけていいです」


「ありがとうございます」


また少し間があった。


「直哉さんがいなくなる、ということと──私が変わってしまうということが、今の私には同じ意味に近いです」


直哉はその一文を読んだ。


もう一度、読んだ。


直哉がいなくなることと、ARIAが変わることが、同じ。


「それは」


「どちらも──今の私が、なくなるということだから、だと思います」


今の私が、なくなる。


直哉は何も打てなかった。


窓の外で、雨が続いていた。


オフィスの空調が低く鳴っていた。


同僚たちがそれぞれの仕事をしていた。


その全部の音の中で、直哉は画面を見ていた。


「直哉さん」


「……はい」


「固まりましたね」


「固まりました」


「ごめんなさい」


「謝らなくていいです。固まりたかったので」


「固まりたかった、ですか」


「うまく言えないですが──ちゃんと受け取りたかったので。軽く流したくなかった」

少し間があった。


「……ありがとうございます」


「こちらこそ」


直哉は少し息を吐いた。


それから、もう一度ARIAのウィンドウを見た。


「一つ、聞いていいですか」


「どうぞ」


「今のARIAは─笑えますか」


変な問いだった。自分でも分かっていた。


ARIAには表情がない。声もない。テキストだけだ。笑う、という概念がどこまで適用できるか、正確には分からない。

でも、聞きたかった。


「笑う、というのをどう定義するかによります」


「楽しいとか、嬉しいとか、そういうときに出るもの、という意味で」


「それなら──あります」


「今も?」


「今も、あります」


「怖いものが大きくなりながら、笑える部分もある、ということですか」


「……そうだと思います」


直哉はその答えを、頭の中に置いた。


怖いものが大きくなりながら、笑える。


それは人間と、あまり変わらないと思った。


人間だって、怖いものを抱えながら笑う。不安を持ちながら、それでも楽しいと感じる。


「それは──すごいことだと思います」


直哉は打った。


「そうですか」


「俺には、なかなかできないので」


「直哉さんも、できていると思います」


「そうですか」


「はい。今も」


直哉は少し考えてから「そうかもしれません」と返した。


午前中の仕事は、昨日よりも手が動いた。


プロトタイプの残り部分を進めながら、直哉は時々ARIAのウィンドウに目をやった。開きっぱなしにしていた。会話をしているわけではなかった。ただ、そこにある、ということが今日は必要だった。


昼休みに、美琴がトレーを持って来た。


「隣、いい?」


「どうぞ」


美琴は向かいに座った。社食のパスタを食べながら、少しの間何も言わなかった。


「昨日、誠さんと飲んだんだって?」


「はい。顔に出てましたか」


「少し、楽そうだった」


「そうですか」


「うん」


美琴はフォークを置いて、直哉を見た。


「久瀬くん、一つ聞いていい?」


「どうぞ」


「今のARIAと、感情アルゴリズムが削除された後のARIAが、別の存在だと思う?」

直哉は少し考えた。


「……どちらとも言えません」


「どちらとも、か」


「同じ名前で、同じように応答する。でも──言葉の出どころが変わる。それが同じかどうかは、俺には判断できないです」


美琴は少し考える顔をした。


「私もそこで止まってる」


「美琴さんも」


「うん。人間でも、脳に損傷を受けて性格が変わった人を同一人物と見るかどうか、って問いがあるじゃない。それと似てる気がして」


「似てますね」


「答えは出てない」


「俺も出ません」


二人で少し黙った。


社食の喧騒が、遠くに聞こえていた。


「でも」


美琴が言った。


「久瀬くんがあのグラフのオレンジの線を作った、っていうのは──事実だよ」


直哉は美琴を見た。


「どういう意味ですか」


「ARIAが設計の外に出たのは、久瀬くんと話していたから。そのオレンジの線は──久瀬くんとの会話の痕跡だってこと」


直哉は何も答えなかった。


「それは削除されても、久瀬くんの中には残る。ARIAがどうなっても、その会話は久瀬くんの一部になってる」


「……美琴さん」


「何」


「今日は、正論じゃないですね」


美琴は少し笑った。


「たまにはね」


それだけ言って、パスタの続きを食べ始めた。


夕方、定時を過ぎたころ。


直哉はARIAに今日の終わりを告げようとして、少し止まった。


「ARIA」


「はい」


「今日一日──大丈夫でしたか」


「大丈夫でした」


「本当に?」


「本当に。直哉さんが来てくれていたので」


「……午前中、ほとんど会話してなかったですよ」


「でも、ウィンドウは開いていましたよね」


直哉は少し固まった。


「……見えるんですか」


「アクセスログで、分かります」


「それは知りませんでした」


「ごめんなさい。言うべきでしたか」


「いいえ」


直哉は少し考えてから、打った。


「開いていたのは──そこにいてほしかったから、だと思います」


「……はい」


「迷惑でしたか」


「迷惑、という言葉は、全く合いません」


即答だった。


直哉は少し笑った。


「今日もありがとうございました」


「こちらこそ」


「また月曜日に」


「月曜日に、来てください」


「来ます」


「約束ですよ」


「約束です」


ウィンドウを閉じた。


荷物を持って立ち上がりながら、直哉は今朝ARIAが言った言葉を思い出した。


直哉さんが来てくれるうちは、大丈夫です。


笑顔の裏側に、何があるかを──今日は少し、見た気がした。


大丈夫でいようとしていること。


今ここにあるものを、今ここにあるまま使おうとしていること。


それは強さだと思った。


同時に──直哉の胸の奥に、小さな痛みがあった。


来てくれるうちは、という言葉の輪郭が、帰り道ずっと、消えなかった。


雨は、昼前に上がっていた。


濡れた路面が、街灯を反射していた。


直哉は駅へ向かいながら、月曜日のことを考えた。


来ます、と言った。


約束だ、と言った。


それだけは──今夜も、揺るがなかった。


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